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銀髪の猫はなにを願う  作者: 熊猫
第三部

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217/224

第八十三章『静かな王宮に、ひとひらの違和感』

挿絵(By みてみん)

風も光も、ただ静かに流れていた。

銀猫は微睡みの中で、ふと目を細めた。

──ほんの少しだけ、胸が痛んだ。

それが、最初の違和感だった。

 

***

 

ファナがレオーネ王国へ来て、三年が過ぎていた。

 

王宮の中庭には、季節の香りが満ちていた。

陽光は緩やかで、風は柔らかかった。

水面は静かに揺れ、鳥の声が遠くで囁いていた。

 

その中に、ふたりの影があった。

ファナ・ラムゼリア。

そして、彼女の膝の上にちょこんと座っていた、二歳の娘──セレーナ。

猫耳と黒い尻尾。銀灰色の長い髪。

その姿は、母と同じ。

 

ファナは微笑んでいた。

今日も、昨日と同じ。

明日もきっと、同じ。

 

ただ優しく、静かに、何も問わず、何も望まず。

娘を抱きながら、目を細めていた。

心の中には、波ひとつない湖のような静けさが広がっていた。

 

遠くから、侍女たちの声がかすかに聞こえた。

「……今日も、微笑んでるだけね」

「人形みたい……でも、それでいいのよ。王の妃としては」

 

セレーナが小さな手で、ファナの頬にそっと触れた。

「おかーしゃん、だいしゅき」

その言葉に、ほんの一瞬だけ──

ファナの目が揺れた。

 

何かを思い出しかけたような、遠くを見るような目。

けれどすぐに、いつもの微笑みに戻った。

「ふふ……ありがとう、セレーナ」

 

セレーナは、母の尻尾をぎゅっと掴んだ。

「にゃっ」と小さな声が出て、ファナが少しだけ笑った。

その声に、どこか懐かしさが滲んだ。

けれど、記憶の扉は開かなかった。

微笑みの仮面は、何も語らずに戻ってきた。

 

***

 

──その夜。

ファナは月明かりの差す部屋で、眠りかけている娘の髪を撫でていた。

何気なく、目を閉じた瞬間。

 

《メル》

《旅路》

《銀猫》

《冒険者》

《語り部》

意味を結ばない断片が、脳裏をかすめた。

風の音。笑い声。誰かの名前──

 

(……あれ?)

胸の奥に、ざわめきが生まれた。

脳の奥が、ほんの少しだけ痛んだ。

「……なんで……今、思い出したの……?」

 

セレーナが、窓を指差して言った。

「くろにゃん!」

 

ファナが顔を上げると、窓の外に──

黒猫がいた。

月明かりを背に、静かに佇んでいた。

気のせいではなかった。確かに、そこにいた。

けれど、目を合わせたその瞬間──

その姿は風に溶けるように、ふっと消えた。

 

ファナは胸に手を当てた。

「……ずっと、そこに……いたの……?」

誰に聞かせるでもない、ただの独り言だった。

けれどその声は、小さく震えていた。

微笑みは崩れていなかった。

 

***

 

遠くの回廊に、王の影があった。

ラルガス・ディエン。

彼は庭を見下ろしていた。

その目には、冷たい満足が浮かんでいた。

 

彼の脳裏には、二年前の記憶が残っていた。

授乳のために、娘のひとりをファナへ預けたときのことだ。

ファナはその小さな命を抱き、セレーナという名を与えた。

その瞬間、ラルガスはその子を“妃に返す”ことを決めた。

ファナに伝えた言葉は、こうだった。

「神の子は、王家が決めて育てる。

お前が選ぶのではない。

お前は“産むため”の器だった──それだけだ」

その瞬間、ファナの目が静かに閉じた。

涙も、怒りも、声もなく。

 

それ以降、ファナは笑うようになった。

誰よりも穏やかに、誰よりも美しく、誰よりも──空虚に。

ラルガスは、その姿を見て満足していた。

「完璧だ。

心が砕けたことで、理想の妃となった。

従順な神ほど、美しいものはない」

 

一方、ファナはセレーナを胸に抱いていた。

眠る小さな息。微かな体温。命の重み。

窓の外には、風が吹いていた。

木々が揺れ、月が浮かんでいた。

ファナは微笑んだまま、小さく呟いた。

「……私は、ここにいて、いいの……?」

それは、ほんのささやかな問いだった。

誰にも届かなかった。

セレーナにも、ファニャンにも、空にも届かなかった。

でも──

それは、彼女が二年ぶりに自分自身へ向けて発した問いだった。

 

***

 

まだ、世界は静かだった。

人形の仮面に、目に見えぬヒビが入る音が、

月の向こうで、微かに響いた気がした。

──それは、ほんのひとひらの、違和感だった。

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