第八十三章『静かな王宮に、ひとひらの違和感』
風も光も、ただ静かに流れていた。
銀猫は微睡みの中で、ふと目を細めた。
──ほんの少しだけ、胸が痛んだ。
それが、最初の違和感だった。
***
ファナがレオーネ王国へ来て、三年が過ぎていた。
王宮の中庭には、季節の香りが満ちていた。
陽光は緩やかで、風は柔らかかった。
水面は静かに揺れ、鳥の声が遠くで囁いていた。
その中に、ふたりの影があった。
ファナ・ラムゼリア。
そして、彼女の膝の上にちょこんと座っていた、二歳の娘──セレーナ。
猫耳と黒い尻尾。銀灰色の長い髪。
その姿は、母と同じ。
ファナは微笑んでいた。
今日も、昨日と同じ。
明日もきっと、同じ。
ただ優しく、静かに、何も問わず、何も望まず。
娘を抱きながら、目を細めていた。
心の中には、波ひとつない湖のような静けさが広がっていた。
遠くから、侍女たちの声がかすかに聞こえた。
「……今日も、微笑んでるだけね」
「人形みたい……でも、それでいいのよ。王の妃としては」
セレーナが小さな手で、ファナの頬にそっと触れた。
「おかーしゃん、だいしゅき」
その言葉に、ほんの一瞬だけ──
ファナの目が揺れた。
何かを思い出しかけたような、遠くを見るような目。
けれどすぐに、いつもの微笑みに戻った。
「ふふ……ありがとう、セレーナ」
セレーナは、母の尻尾をぎゅっと掴んだ。
「にゃっ」と小さな声が出て、ファナが少しだけ笑った。
その声に、どこか懐かしさが滲んだ。
けれど、記憶の扉は開かなかった。
微笑みの仮面は、何も語らずに戻ってきた。
***
──その夜。
ファナは月明かりの差す部屋で、眠りかけている娘の髪を撫でていた。
何気なく、目を閉じた瞬間。
《メル》
《旅路》
《銀猫》
《冒険者》
《語り部》
意味を結ばない断片が、脳裏をかすめた。
風の音。笑い声。誰かの名前──
(……あれ?)
胸の奥に、ざわめきが生まれた。
脳の奥が、ほんの少しだけ痛んだ。
「……なんで……今、思い出したの……?」
セレーナが、窓を指差して言った。
「くろにゃん!」
ファナが顔を上げると、窓の外に──
黒猫がいた。
月明かりを背に、静かに佇んでいた。
気のせいではなかった。確かに、そこにいた。
けれど、目を合わせたその瞬間──
その姿は風に溶けるように、ふっと消えた。
ファナは胸に手を当てた。
「……ずっと、そこに……いたの……?」
誰に聞かせるでもない、ただの独り言だった。
けれどその声は、小さく震えていた。
微笑みは崩れていなかった。
***
遠くの回廊に、王の影があった。
ラルガス・ディエン。
彼は庭を見下ろしていた。
その目には、冷たい満足が浮かんでいた。
彼の脳裏には、二年前の記憶が残っていた。
授乳のために、娘のひとりをファナへ預けたときのことだ。
ファナはその小さな命を抱き、セレーナという名を与えた。
その瞬間、ラルガスはその子を“妃に返す”ことを決めた。
ファナに伝えた言葉は、こうだった。
「神の子は、王家が決めて育てる。
お前が選ぶのではない。
お前は“産むため”の器だった──それだけだ」
その瞬間、ファナの目が静かに閉じた。
涙も、怒りも、声もなく。
それ以降、ファナは笑うようになった。
誰よりも穏やかに、誰よりも美しく、誰よりも──空虚に。
ラルガスは、その姿を見て満足していた。
「完璧だ。
心が砕けたことで、理想の妃となった。
従順な神ほど、美しいものはない」
一方、ファナはセレーナを胸に抱いていた。
眠る小さな息。微かな体温。命の重み。
窓の外には、風が吹いていた。
木々が揺れ、月が浮かんでいた。
ファナは微笑んだまま、小さく呟いた。
「……私は、ここにいて、いいの……?」
それは、ほんのささやかな問いだった。
誰にも届かなかった。
セレーナにも、ファニャンにも、空にも届かなかった。
でも──
それは、彼女が二年ぶりに自分自身へ向けて発した問いだった。
***
まだ、世界は静かだった。
人形の仮面に、目に見えぬヒビが入る音が、
月の向こうで、微かに響いた気がした。
──それは、ほんのひとひらの、違和感だった。




