幕間『愛など、なかった』
雨のような音がしていた。
静かな、水の音。
産声は──あまりに短く、そして小さかった。
「……おめでとうございます。王妃さま」
誰かが言う。
けれど、それが誰だったのか、もう思い出せない。
頭の中は白く、胸の奥は空っぽで。
ただ、腕の中にある小さな命だけが、現実だった。
息をしている。ぬくもりがある。
小さな手が、指を握っている。
それだけで、涙があふれそうだった。
***
やがて扉が開き、彼が現れた。
──ラルガス・ディエン。
レオーネ王国の王であり、ファナのすべてを変えた男。
彼はゆっくりと歩み寄り、赤子を覗き込む。
「……女か」
まるで、そこに価値を量る天秤があるかのように。
「そう、か……」
少しの沈黙。
「……なら、神の器として扱えばよい」
その言葉が、まるで刃のようだった。
「……え?」
ファナの声は掠れていた。
「……なん、ですか……?」
「跡継ぎには使えん。
“神の器”としてなら、しばらくは役に立つかもしれんが……。
この子に“王としての価値”はない。
そういうことだ、ファナ」
彼女は震える手で、子を抱き直した。
「待って、そんな……っ。
この子は……わたしの……わたしの……!」
「……お前のものではない」
「その子は“王家の所有物”だ。神の血と王の血を引いた存在。
今後は、宮廷の管理下に置く。教育も、監視も、式典への登壇も……全て、私が決める」
「そんな……!」
ファナは叫ぼうとした。
でも、声が出なかった。
顔が熱い。喉が詰まる。
涙が、止まらない。
「あなたは……あなたは、“大事にする”って……!」
──あれは、嘘だったの?
あの優しさも、あの腕も、あの夜の言葉も。
全部、全部……。
「……ああ、言ったな」
彼はふと、軽く笑った。
「“大事にする”。
ああ。……そうだ。“手に入れたもの”として、な」
「安心しろ。宮廷は整っている。
お前にも、最低限の尊厳は与えよう。
“神の妃”という飾り物としては、まだ使えるからな」
ファナは、まるで身体が砕けていくように感じた。
ふと、胸の上の赤子が、小さく息をした。
その音だけが、現実。
(この子だけは……)
彼は最後にこう言った。
「これからは、微笑んでいればいい。
お前にはそれが一番似合う。感情は、いらない」
──そして彼は去った。
部屋には、静寂だけが残った。
ファナは、何も言わなかった。
赤子を抱いたまま、じっと前を見ていた。
もう涙も出なかった。
そして──
ファナは、微笑んだ。
ゆっくりと。
静かに。
「……うん、大丈夫。だいじょうぶよ……」
誰に言うでもなく。
ただ、口元だけで。
その日から、ファナは微笑むことしかしなくなった。
怒らず、泣かず、叫ばず。
子を抱き、王に従い、式典で祈り、
いつも静かに、美しく、穏やかに。
まるで──人形のように。
愛を信じてしまったのは、自分だった。
だからせめて、この子の前では、
壊れていないふりをしよう。
ファナ・ラムゼリアは、誰にも気づかれぬまま、
“完璧な神の妃”としての仮面を身にまとうこととなる。
──終わりなき檻の中で。




