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銀髪の猫はなにを願う  作者: 熊猫
第三部

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215/224

第八十二章『退屈な人形、美しき終幕』

挿絵(By みてみん)

宮廷は静けさに満ちていた。

陽光はよく磨かれた大理石の床に反射し、金の装飾は光の粒となって空間を踊る。

白と銀で統一された祭壇の奥に、彼女はいた。

 

銀猫の聖妃──ファナ・ラムゼリア。

 

その名を今も持つかは定かではない。

けれどこの国では、誰も彼女をそう呼ばなくなった。

「神の妃」

「聖獣の化身」

「天の加護を受けし者」

あるいはただ──「王の象徴」。

 

***

 

季節がひとつ巡る頃には、ファナの身体にも変化が現れていた。

荘厳な衣。淡い月光色のドレスは神聖さを強調しながら、柔らかく膨らんだ腹部を巧みに包んでいた。

意図的であるのか、偶然であるのか。

けれどその衣が、彼女の輪郭から“人”としての陰影を消していく。

 

今日は祈りの日だった。

月初め、国民の安寧を祈る「銀星の式典」。

ファナは静かに祭壇へ進み、両手を胸の前で重ねる。

一切の言葉もなく。

一切の躊躇もなく。

ただ、祈る。

天へ向けられたその姿は、まるで──偶像。

 

***

 

「……まるで、人形のようね」

侍女の一人が、囁いた。

その声音は驚きでも、憐れみでもなく。ただ事実を述べただけのものだった。

「でも……きれい」

「ええ、きれい。……でも、なんだか、怖いわ」

 

彼女たちは遠巻きに見守る。

敬意と、畏怖と、あるいはほんの僅かな違和感。

けれど誰も、それを声には出さない。

それが“この世界”の掟だから。

 

***

 

ファナの瞳は、空を映していた。

笑顔はある。けれど、それはどこか空虚な仮面のように整えられたもの。

彼女は“神の妃”。

民の前で泣くことも、笑うことも、崩れることも許されない。

静かに、完璧に。

 

***

 

そして、誰も見ていない時──

ほんの一瞬だけ。

ファナは手をお腹に添える。

ゆっくりと。優しく。

まるで、大切な何かに触れるように。

その沈黙が、誰よりも雄弁に語っていた。

 

***

 

王の姿はない。

祭壇に立つのは、この国の象徴となったファナだけだった。

 

ラルガス・ディエン王。

銀猫を手に入れ、神を妻に迎え、世界を掌中に収めた男。

その名は民の誇りとなり、

彼の王宮は、完璧な静寂と美によって満たされていた。

 

***

 

そして──その光景を、遠く高台から見下ろす一人の影があった。

黒のドレス。深紅の瞳。陽光の下に浮かぶ冷笑。

ヴェルナ・クローデル。

舞台の外から、長らくこの物語を観察していた女。

 

「……あの瞬間、銀猫が堕ちた」

その声は、高台を渡る風に紛れた。

「優しくて、脆くて、ただまっすぐだったあの子が──

迷いを捨てて、すべてを諦めて、王の色に染まった」

「その刹那の煌きは、そう……最高に美しかった」

 

微笑む。

酔いしれるように、目を閉じる。

「でも、ここまで堕ちきってしまうと……」

その瞳が再び開かれ、銀の祭壇を見下ろす。

「……ただの人形。退屈ね」

 

***

 

風が吹いた。

黒の髪が揺れる。

「“舞台”は終わったの。役者が役に呑まれたら、あとはただの小道具」

そして、静かに背を向けた。

「次はどこかしら。

もっと素敵な“崩壊”が待っていると、いいのだけれど」

そうして、彼女は霧のように消えた。

舞台から、幕の外へと。

 

***

 

ファナは最後の祈りを終えた。

光が差し込む空を見上げる。

その表情は穏やかで、柔らかくて、何も映していない。

 

だが──

ただ一つ、その手だけが。

そっと、お腹に触れたままだった。

静かに、静かに、微笑む。

それは慈愛か、あるいは絶望か。

その意味を知る者は、ここにはいない。

──幕は、降りた。

 

***

 

それでも、舞台の中心には──

まだ、微かな命が残っていた。

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