第八十二章『退屈な人形、美しき終幕』
宮廷は静けさに満ちていた。
陽光はよく磨かれた大理石の床に反射し、金の装飾は光の粒となって空間を踊る。
白と銀で統一された祭壇の奥に、彼女はいた。
銀猫の聖妃──ファナ・ラムゼリア。
その名を今も持つかは定かではない。
けれどこの国では、誰も彼女をそう呼ばなくなった。
「神の妃」
「聖獣の化身」
「天の加護を受けし者」
あるいはただ──「王の象徴」。
***
季節がひとつ巡る頃には、ファナの身体にも変化が現れていた。
荘厳な衣。淡い月光色のドレスは神聖さを強調しながら、柔らかく膨らんだ腹部を巧みに包んでいた。
意図的であるのか、偶然であるのか。
けれどその衣が、彼女の輪郭から“人”としての陰影を消していく。
今日は祈りの日だった。
月初め、国民の安寧を祈る「銀星の式典」。
ファナは静かに祭壇へ進み、両手を胸の前で重ねる。
一切の言葉もなく。
一切の躊躇もなく。
ただ、祈る。
天へ向けられたその姿は、まるで──偶像。
***
「……まるで、人形のようね」
侍女の一人が、囁いた。
その声音は驚きでも、憐れみでもなく。ただ事実を述べただけのものだった。
「でも……きれい」
「ええ、きれい。……でも、なんだか、怖いわ」
彼女たちは遠巻きに見守る。
敬意と、畏怖と、あるいはほんの僅かな違和感。
けれど誰も、それを声には出さない。
それが“この世界”の掟だから。
***
ファナの瞳は、空を映していた。
笑顔はある。けれど、それはどこか空虚な仮面のように整えられたもの。
彼女は“神の妃”。
民の前で泣くことも、笑うことも、崩れることも許されない。
静かに、完璧に。
***
そして、誰も見ていない時──
ほんの一瞬だけ。
ファナは手をお腹に添える。
ゆっくりと。優しく。
まるで、大切な何かに触れるように。
その沈黙が、誰よりも雄弁に語っていた。
***
王の姿はない。
祭壇に立つのは、この国の象徴となったファナだけだった。
ラルガス・ディエン王。
銀猫を手に入れ、神を妻に迎え、世界を掌中に収めた男。
その名は民の誇りとなり、
彼の王宮は、完璧な静寂と美によって満たされていた。
***
そして──その光景を、遠く高台から見下ろす一人の影があった。
黒のドレス。深紅の瞳。陽光の下に浮かぶ冷笑。
ヴェルナ・クローデル。
舞台の外から、長らくこの物語を観察していた女。
「……あの瞬間、銀猫が堕ちた」
その声は、高台を渡る風に紛れた。
「優しくて、脆くて、ただまっすぐだったあの子が──
迷いを捨てて、すべてを諦めて、王の色に染まった」
「その刹那の煌きは、そう……最高に美しかった」
微笑む。
酔いしれるように、目を閉じる。
「でも、ここまで堕ちきってしまうと……」
その瞳が再び開かれ、銀の祭壇を見下ろす。
「……ただの人形。退屈ね」
***
風が吹いた。
黒の髪が揺れる。
「“舞台”は終わったの。役者が役に呑まれたら、あとはただの小道具」
そして、静かに背を向けた。
「次はどこかしら。
もっと素敵な“崩壊”が待っていると、いいのだけれど」
そうして、彼女は霧のように消えた。
舞台から、幕の外へと。
***
ファナは最後の祈りを終えた。
光が差し込む空を見上げる。
その表情は穏やかで、柔らかくて、何も映していない。
だが──
ただ一つ、その手だけが。
そっと、お腹に触れたままだった。
静かに、静かに、微笑む。
それは慈愛か、あるいは絶望か。
その意味を知る者は、ここにはいない。
──幕は、降りた。
***
それでも、舞台の中心には──
まだ、微かな命が残っていた。




