第八十一章『静かなる籠の中で』
夜が来るのは、決まって静かだった。
淡い香に包まれた寝台。柔らかな天蓋。磨かれた白銀の燭台に、今宵も火が灯る。
その寝台で、彼女は目を閉じていた。
──ファナ・ラムゼリア。
かつて、一人の冒険者として銀猫と呼ばれた少女。
小さな街で、仲間と笑い、冒険者として生きた日々は──今では遠い記憶の向こうにある。
「……ん……」
ラルガス王の腕が、眠りの中で彼女の腰を引き寄せる。
その重みにも、体温にも、ファナはもう驚かない。
最初は怖かった。
何もかもが違っていた。肌に触れる布一つ、呼ばれる言葉一つさえも。
王という存在。彼の笑顔、彼の声、彼の言葉。優しいのに、どこか逃げ場がなくて──
でも、それも今では「当たり前」になった。
ただ、目を閉じる。
抱かれていることも、寄り添うことも、王妃としての宿命も──ただ、受け入れる。
(帰りたい……)
(でも、わたしがいなくなったら、この人たちはどうなるの……?)
心の奥で、小さく響いたその言葉に、自らの心が縛られていく。
***
王宮では、彼女のことを「神の花嫁」と呼んだ。
ある日、ラルガス自らがそう宣言したのだ。
「この神聖なる奇跡を、我が王国の祝福とする。銀の猫は、天の使い。その心を受け止めるのは、王たる我である──」
それを誰も否定しなかった。
むしろ、人々は歓喜した。祭りのように歌い、街を飾り、空を仰いで「神の妃」を讃えた。
ファナの元には、無数の贈り物が届いた。
香り高い花々、美しい宝飾、純白の衣──どれも彼女を「妃」として仕立てるものだった。
礼儀作法の教育も始まった。
指導にあたるのは、王の信任厚き騎士・侍女たち。
正しい敬礼、器の持ち方、声の張り方、政務文書の読み方まで、彼女は黙って受け入れ、身に刻んだ。
その手は、かつて剣を握っていた。
その声は、かつて語り部として物語を紡いでいた。
(でも……今はもう、違う)
鏡に映る自分は、豪奢な衣装に包まれていた。
手入れされた銀髪。透き通る肌。整えられた指先。王妃としての優雅さ。
「……こんなの、わたしじゃない」
そう思った。
けれど、鏡の中の王妃を待っている人々の顔が浮かぶ。
「でも……放っていけないよ……」
そう呟いて、鏡の中の自分を見つめた。
***
机の引き出しの奥には、一通の手紙が眠っていた。
何度も読み返した。
擦れて、折れ目はやわらかくなり、けれど文字ははっきり残っている。
「君が決めたなら、俺はそれを信じよう。
ただ、いつか迷った時──君の声が、君の意志が、戻る場所を失わないように。
その時は……きっと、また会おう」
名前は書かれていない。けれど、誰の言葉かは分かっていた。
(──メル)
今、その名前を口に出すことはない。
封印するように、心の深くに閉じ込めた。
引き出しは、もう何日も開けていない。
***
「にゃ……」
ふと、夜の静けさの中に、微かな音が落ちた。
猫のような、どこか懐かしい鳴き声。
ファナは身を起こし、ゆっくりと辺りを見渡す。
けれど、部屋には誰もいない。
「……幻聴、かな」
そう微笑む唇は、どこか寂しげだった。
声に出して呼ぶことはできなかったけれど──確かに、感じていた。
(ファニャン……)
姿が見えなくても、あの気配はどこかにある。
彼女のそばに、今も、ずっと。
***
月明かりが、柔らかく寝台を照らす。
ラルガス王は穏やかな寝息を立てていた。
ファナは、彼の背に寄り添いながら、そっと目を開けた。
そして、ゆっくりと自分の腹に手を当てる。
そこに何かがあると、断言できるわけじゃない。
でも、何かがいるような気がした。
小さな命が、始まっているような気がした。
沈黙の中で、彼女は微笑んだ。
「……ねえ、ファニャン。聞こえてる?」
誰にも届かない、小さな呟き。
その瞬間だけは、迷いも涙も浮かばなかった。
ただ静かに──今という現実を、その手のひらの下で受け止めていた。
***
──そして、遠く離れたどこか。
冷たい床。石の舞台。
その中央で、ヴェルナ・クローデルは微笑んでいた。
黒のドレスが揺れ、赤い唇が開かれる。
「──ああ、もう少しで完成ね……」
ヴェルナは楽しげに目を細めた。
「銀猫は王妃の役を受け入れ、帰りたい声を胸の奥へ閉じ込め始めた」
紅い唇に、静かな笑みが浮かぶ。
「けれど、まだ幕を下ろすには早いわ」
彼女は見えない舞台をなぞるように、細い指を宙へ滑らせた。
「あとひとつ。最後の役者が舞台へ上がれば──」
「その時こそ、この悲劇は完成する」
──次の悲劇の、始まりのために。




