第八十章『檻の夢、銀猫の目覚め』
朝が、訪れていた。
東の空にわずかに紅がにじみ始め、寝台のカーテンの隙間から淡い光が差し込む。
ゆっくりと世界が目覚めてゆくなかで、ファナのまぶたが震えた。
浅いまどろみの中、彼女はそっと瞳を開け──視線の先に、寄り添う温もりを認めた。
隣には、静かに眠るラルガス王の姿。
その寝息は穏やかで、風のように微かに、だが確かに彼女の肌に触れる。
(……あ……)
ファナはゆっくりと身じろぎをした。肩にかかっていた薄いシーツが滑り落ち、露わになった白い肌へ朝の冷たい空気が触れる。
彼女の腕が、ほんの少し震えた。
枕元へ目を向ければ、昨夜乱れた上着がくしゃりと落ちていた。
そして──ファナは、目を伏せた。
(……もう、わたしは──)
指先が震える。
目を逸らすように、彼女は寝台を抜け出した。その動作にも、どこか迷いが滲んでいる。
鏡の前に立つと、昨夜の名残があまりに明確にそこにあった。
銀灰の髪はわずかに乱れ、頬はかすかに紅潮したまま。
鏡の中の自分と目を合わせられず、彼女はそっと目を伏せる。
「……わたし、もう……戻れないところまで来ちゃったんだ」
「……誰のせいでもない。自分で選んだ。……戻れないんだ……」
寝台に残る温もりが、肌に染みついている。
それがどこか優しく、苦しい。
ファナは今にもこぼれそうな吐息を殺し、胸元を抱きしめるように手を当てた。
──そんなときだった。
ふと、何かが足りないことに気づく。
この朝の部屋に、本来ならばいるはずの小さな気配が──ない。
「……ファニャン……?」
名前を呼んでから、ファナはすぐに口元を押さえた。
自分が、それを求めていたのだと気づいてしまったから。
「……そっか、いないんだ。……そうだよね」
ぽつりと呟く。
あの小さな黒猫は、あの日から姿を見せていない。
ファナは、自分から離れていったのだと思っていた。
「……ごめんね、ファニャン……」
それ以上は言葉にならなかった。
ただ、信じていた。
またいつか──あのふわふわした身体が、気づけば隣にいてくれることを。
それが、どんなに勝手な願いであっても。
***
そのころ──
木々が生い茂る城の庭園。その奥、誰の目にもつかぬ高木の枝の上。
そこに、小さな影が佇んでいた。
黒く、小さく、ふわりとした身体。
夜明けの風に毛並みを揺らしながら──
紫の瞳の奥に、かすかな銀の光が宿っていた。
──ファニャンだった。
何も言わず、ただ遠くを見ていた。
その目に映るのは、広大な王城の一角──あの部屋の窓。
見守ることしかできない小さな背中が、風に揺れていた。
***
古びた塔の高窓に、ひとりの女が立っていた。
艶やかな黒紫の長い髪に、仮面のような微笑。かすかに揺れるドレスの裾。
──ヴェルナ・クローデル。
彼女はひとつ息をつき、宙を見上げて、詩を口ずさむように呟いた。
「──ようやく、幕が上がったわね」
「主演は銀猫。助演に王。舞台は、甘い檻の中……」
その瞳は遠くを見るでもなく、しかしすべてを見通すかのように淡い光を湛えていた。
唇が笑みの形を作る。
「さあ、ここから何を選ぶのか、見せてちょうだい」
「愛も、哀しみも、すべて抱えたままで──」
音もなく、風が高窓を吹き抜ける。
ヴェルナは目を細め、囁いた。
「……次の幕も、楽しませてね。銀猫」
塔に残る薄闇へ溶けるように、彼女の姿が消えていった。




