第七十九章『銀猫、囚われの夜に』
王城へ迎えられてから、数日が過ぎていた。
王城の昼は華やかだった。
青い天蓋、白い大理石、花々の香りに満ちた回廊──
けれど、それらの美しさはどれも、扉の向こうにあった。
「……お茶を、お持ちしました」
控えめに扉が開き、使用人の少女が銀の盆を差し出す。
その所作は丁重だった。だが、目は合わせてこなかった。
「ありがとう。ここに置いておいて……」
ファナが小さく微笑むと、少女は一礼し、言葉もなく部屋を去っていった。
扉が閉まる音だけが、やけに大きく響いた。
(……また、ここにひとり)
花に囲まれた特別室。
柔らかな絨毯、ふかふかのソファ、暖かい光。
何ひとつ不自由はない。けれど、どこにも自由がなかった。
街へ出たいと申し出れば、「安全のため」と穏やかに止められた。
メルに会いたいと伝えても、「彼も任務で忙しい」とやんわり退けられる。
「……神の、花嫁……」
そう囁いたのは、使用人ではなく、昼にふと耳に入った兵の言葉だった。
“銀猫は、神の象徴。王と結ばれ、国の未来となる”
いつの間にか、王城ではそんな噂が囁かれるようになっていた。
まるでそれが既定路線であるかのように、誰もが自然に口にする。
(違うよ……そんな、つもりじゃなかった)
けれど、その言葉を否定する者はいなかった。
メルは、遠くにいる。
数日前、侍女たちが部屋へ入ってきた時、ファニャンはするりと扉の隙間から外へ飛び出した。
それ以来、姿を見せていない。
***
夜──
ファナは大きなベッドに身を沈めていた。
薄いシーツが肌を包む。けれど、それすらも孤独を癒せなかった。
閉じたまぶたの裏に浮かんだのは──
あの金色の髪。笑いながら口をとがらせてからかってくる、あの人。
「……メル……」
夢の中、メルが微笑んでいた。
『戻ってきて。俺は、ここにいるよ』
メルの傍らには、ファニャンの姿もあった。
小さな黒猫が、ファナの頬を舐めている。
懐かしくて、優しくて──帰る場所のようだった。
「っ……」
目が覚めた。
「……いない……」
部屋は、静寂に満ちていた。
(あの人は、もう……ここにはいない)
(あの子も、どこにいるのか分からない)
「……ごめんね、メル……」
こらえていたものが堰を切り、涙が頬をつたった。
「わたし、ここに……来なければよかったのかな……」
「メルと、あのまま……」
言葉にならない想いが喉に詰まる。
吐き出す場所も、すがる腕も──ここにはなかった。
「泣かないで」
その声は、まるで夢の続きのようだった。
戸を叩くこともなく、ラルガス王がそこに立っていた。
それを不思議に思うより先に、ファナはその声に安堵してしまっていた。
「っ……!」
ファナは反射的に身を起こすが、涙の痕はすでに頬に残っている。
「ごめん……今、見ないで……」
「どうして?」
彼はベッドに歩み寄り、そっとファナの髪に触れた。
「涙は、君が人を想っている証だ。隠すことはないよ」
その指先は、まるで花びらのように優しかった。
額にかかった髪を払い、頬をなぞり、濡れたまつ毛をそっと撫でた。
「君が悲しむのは……見ていられない」
ファナは、言葉を失っていた。
やがて彼女は、ぽつりと呟いた。
「……どうして……そんなに優しいの……」
「それは、君を……愛しているからだよ」
囁くような声だった。
「わたしは──」
言おうとして、声が震える。
その瞬間、王が彼女の手を取り、そっと包んだ。
「もう、無理をしなくていい。誰も君を責めはしない。君はただ──幸せになればいいんだ」
その言葉に、ファナはただ黙って頷いた。
「──ファナ」
彼女の名を呼ぶと同時に、ラルガス王はそっと彼女の頬に口づけた。
ゆっくりと、なぞるように。
ファナは、ただ目を閉じた。
ラルガス王がわずかに顔を離すと、ファナはそっと彼の背に腕を回した。
そして──
「……ありがとう……」
小さな声でそう呟き、王の胸に顔をうずめたまま、静かに涙を流していた。
ラルガス王は何も言わず、その背に手を回し、しっかりと受け止めた。
(違う……ちがうのに……)
(メルのところに、帰らなきゃ……)
(でも……優しいの。温かくて、寂しくなくて……)
(帰らなきゃいけないのに……今だけは、この温かさから離れたくなかった)
***
──同じころ、王城の最上階。
王城のどこかで、ひとつの選択がなされたことを察したように、ヴェルナ・クローデルは月を見上げていた。
黒紫の長い髪を風に揺らしながら、独りごちった。
「あらあら。主役が入れ替わるのかしら?」
「ラルガス王の破滅劇だと思っていたけれど……
帰りたいと願いながら、差し出された手を取る。人って、本当に綺麗に矛盾するのね」
紅い唇に薄い笑みを浮かべ、肩をすくめる。
「けれど、舞台の幕はまだ降りていない。
ねぇ、金雷? 君が、どう登場してくるのか……楽しみにしてる」
月の光が、彼女の双眸に妖しく反射した。
ベッドの上、寄り添う二つの影。
ファナは目を閉じ、ラルガス王の胸の鼓動に耳を傾けていた。
扉の外──
物陰に、黒い猫が一匹、佇んでいた。




