第七十八章『王城、銀猫を迎える』
翌朝。
宿を発った一行は、王都の外門へとたどり着いた。
空は晴れ渡り、陽光がまっすぐに降り注いでいる。
ファナを乗せた馬車が門前で止まった拍子に、足元へ積まれていた荷物のひとつが、ほんのわずかに揺れたような気がした。
ファナが目を向けた時には、もう何事もなかったように静まり返っている。
(……気のせいかな?)
待機していた役人たちが書類を手に近づいてきた。
「使節団の入都手続きと、滞在者の最終確認を行います」
先頭に立つ役人が、馬車の傍らを歩いていたメルへ一礼する。
「同行者の登録、携行されている武器と魔導具の申告をお願いいたします。ファナ様の滞在手続きにつきましても、代表者の方にまとめてお願いできますでしょうか」
「俺がやろう」
メルは足を止め、差し出された書類を受け取った。
馬車の窓から顔をのぞかせたファナが、不安そうに耳を傾ける。
「えっ、わたしも一緒に残った方が……」
「署名と確認だけだ。君が残っても、退屈するだけだろ」
「でも……」
ファナが隣へ視線を向ける。
そこに座るラルガスは、穏やかな笑みを浮かべていた。
「メル殿なら心配はいらないよ。手続きが済み次第、城で合流できる」
メルは一瞬だけラルガスを見たあと、ファナへ軽く手を振った。
「先に行ってろ。すぐ追いつく」
「……うん。分かった」
馬車が再び動き出す。
門前に残ったメルは、遠ざかっていく馬車を見送り、手元の書類へ目を落とした。
「……なるほど。実に丁寧なおもてなしだ」
王都の門をくぐると、景色が一変した。
白い石造りの街並み。その沿道には、多くの人々が集まっている。
花を手にした者。
子どもを肩車した者。
建物の窓や露台から、身を乗り出すように馬車を見つめる者。
ファナは少し強張った指先でカーテンを持ち上げた。
沿道の人々が、一斉にこちらへ手を振っている。
「陛下だ!」
「ラルガス陛下がお戻りになられたぞ!」
「国王陛下、万歳!」
その声を聞いた瞬間、ファナの指が止まった。
「……陛下?」
聞き間違いかと思った。
けれど、沿道の人々は次々に頭を下げ、口々にラルガスの名を呼んでいる。
ファナはゆっくりと隣へ顔を向けた。
「……ラルガス、王太子……だよね?」
ラルガスは笑みを崩さなかった。
「驚かせてしまったね」
否定しない。
それが何よりも明確な答えだった。
「……王様、だったの?」
「ああ」
「どうして、今まで……」
ラルガス王は、窓の外へ一度だけ目を向けた。
「国王自らが赴いたと知られれば、あれは使節団の訪問では済まなくなる」
「使節団では……なくなる?」
「王の公式訪問として扱わなければならない。
相手国は警備や儀礼、会談の準備を改める必要がある。余計な警戒と負担をかけることになるからね」
「だから……王太子だって?」
「表向きは、外交を学ぶために使節団へ同行した王太子。
それなら、王族が現地を見て回っていても不自然ではない」
ファナは膝の上で指を重ねた。
言われてみれば、理由は分かる。
けれど、胸の奥に残った小さな引っかかりまでは消えなかった。
「でも……どうして、そこまでして?」
ラルガス王は、静かにファナへ視線を戻した。
「君が思っている以上に、銀猫の噂は広まっている」
「わたしの……噂?」
「国境を越え、多くの民が君の名を知っている。君の行いに救いを見いだし、願いを託す者もいる」
ファナは目を瞬かせた。
自分の知らない場所で、自分の名前だけが遠くまで歩いている。
そう聞かされても、すぐには実感できなかった。
「もはや、ひとりの冒険者として報告だけで判断できる存在ではなかった」
「そんな……わたしは、何も……」
「君自身にそのつもりがなくても、君の言葉や行動に心を動かされる者はいる」
ラルガス王は、まっすぐにファナを見つめた。
「銀猫と呼ばれる君が、どんな人間なのか。何を望み、民が君に何を見ているのか。
私は、自分の目で確かめる必要があった」
国王として必要だったのか。
それとも、ラルガス自身が会いたいと望んだのか。
ファナには、その境目が分からなかった。
そのとき、沿道から別の声が上がる。
「銀猫様だ……!」
「陛下が銀猫様をお連れくださったぞ!」
「銀猫様、ようこそレオーネ王国へ!」
その呼び声は瞬く間に周囲へ広がり、王の帰還を祝う歓声と重なっていった。
「銀猫様!」
「こちらを向いてください!」
「レオーネへ来てくださって、ありがとうございます!」
向けられる笑顔に、ファナは目を丸くした。
「みんな……本当に、わたしのことを知ってるの?」
「君の物語は、君が思っている以上に多くの人へ届いている」
ラルガス王は窓の外へ視線を向ける。
「民たちは、君がこの国へ来てくれたことを喜んでいるんだ」
「わたしが……来たことを……」
ファナは戸惑いながらも、小さく手を振った。
ただ、歓迎してくれた人々へ挨拶を返すつもりだった。
その途端、沿道から一際大きな歓声が上がる。
驚いて手を引っ込めかけたファナを見て、ラルガス王が小さく笑った。
「怖いかい?」
「い、いえ……ただ、実感がなくて」
「それでいい。君は君のままで、ここにいてくれればいい」
ファナは迷いながらも、小さく頷いた。
窓の外では、今も多くの人々が笑顔を向けている。
王だと知らされていなかったことは、胸の奥に引っかかっていた。
それでも、ラルガス王が自分を騙して傷つけようとしていたとは思えなかった。
王城へと続く石畳の道には白い花が並び、整えられた衛兵たちの列が遠くまで続いていた。
その中央を、重厚な金装飾の馬車がゆっくりと進んでいく。
やがて馬車が門前へ到着すると、大門が儀式の鐘を思わせる音を立てて開き始めた。
「王城門、開け──国王陛下と銀猫様をお迎えせよ!」
門兵の声が響き、左右の大扉が重々しく開く。
緋色の絨毯の両脇には衛兵たちが整列し、その奥では王城の側近たちが一斉に頭を下げていた。
馬車の扉が開く。
ラルガス王は先に降り立つと、ファナへ手を差し伸べた。
「おいで、ファナ」
目の前に広がる光景に、ファナの呼吸が一瞬止まる。
おとぎ話めいた黄金の城。
ひとつの揺らぎもない整列。
風にたなびく王国の紋章。
そして、すべての視線が、自分一人へ注がれていた。
「ようこそ。我が王城へ」
ラルガス王は、ファナを見上げて微笑む。
「君をここに迎えられたことを、心から嬉しく思うよ」
ファナは、ためらいながらその手を取った。
柔らかな笑顔に導かれるように、馬車から降りる。
王城前に集まった人々から、再び歓声が上がった。
ラルガス王はファナの手を取ったまま、民衆へ向き直る。
「民たちよ。今日、私は大切な友人をこの国へ迎えた」
その声に、広場が静まり返った。
「彼女の名はファナ。多くの者が銀猫様と呼ぶ、心優しき旅人だ」
一瞬の静寂の後、歓声が弾ける。
「銀猫様!」
「レオーネ王国へようこそ!」
「陛下のご友人だ!」
次々に向けられる笑顔に、ファナは戸惑いながらも、もう一度小さく手を振った。
友人として迎えられるだけなら。
そう思えば、この歓迎を拒むことまではできなかった。
少し遅れて、メルが城門をくぐった。
王都の外門で手続きを終えたあと、馬車を追って歩いてきたのだ。
芝居がかった仕草でマントを翻す姿に、周囲の視線は一瞬だけ集まった。
「あの男は?」
「銀猫様の護衛だろう」
そんな声が、集まった人々の間から小さく聞こえた。
王城の係官が近づき、形式どおりに頭を下げる。
「──ギルド推薦の同行者、メル・エルドリア殿。こちらへ」
「やや冷たいおもてなしだな。だがまあ、それもまた“役割”か」
メルはひとりごちて笑い、優雅に礼を返した。
その視線の先では、ファナがラルガス王の隣に立っている。
民衆の歓声に応えながら、まだ戸惑いを隠せずにいた。
(今のあいつ──嬉しそうに見えた)
メルはわずかに目を細める。
(……だからこそ、なおさら警戒しなきゃな)
***
玉座の間。
通常ならば、格式に満ちた儀式が行われるはずの場所。
だが、ラルガス王は玉座には座らず、自ら階段を降りてきた。
「私は“王”として君を迎えるつもりはない」
ラルガス王は、ファナと同じ高さに立って告げる。
「ひとりの人間として。そして、大切な友人として、心から歓迎している」
周囲の者たちも沈黙した。
(こんなに真っすぐな言葉……)
ファナは胸元へ手を添える。
(嬉しいのに、なんでだろう……少し、怖い……)
***
案内された部屋は、王宮の中心部にあった。
高い天井に、柔らかな陽光を取り込む大窓。
色とりどりの花が咲き誇る、楽園を思わせる特別室。
「こちらがファナ様のお部屋になります」
「え、えっと……こんな広いの、わたしには……」
「君にふさわしい部屋を、と整えさせた。どうか遠慮せずに」
「……でも、メルと同じ部屋でも……」
「彼には、静かに休める別棟を用意してある」
ラルガス王は当然のことのように答えた。
「入都手続きや長旅で疲れているだろう。お互いに休息が必要だよ」
ファナは一瞬、口を開きかけた。
けれど、メルが疲れているという言葉を聞くと、何も言えなくなった。
「……はい。ありがとうございます」
その背後で、侍女たちが荷物を運び入れる。
──夜。
王城に静けさが訪れる。
ファナは、部屋の中央にあるソファへ腰かけていた。
広すぎる空間。
静かすぎる空気。
窓から見える王都の灯りは、星々の海のように輝いている。
(きれい……だけど……)
(……少し、寂しい……)
そのとき。
「にゃっ」
「きゃっ!?」
寝台の布団がもぞもぞと動き、黒い影が飛び出した。
「ファ、ファニャン……!?」
黒猫は床へ着地すると、迷う様子もなくファナのもとへ駆け寄った。
そのまま膝へ飛び乗り、何事もなかったかのように毛づくろいを始める。
「……もう、置いていけるわけないでしょ……」
ファナは笑った。
寝台に潜り込み、目を閉じる。
枕元には、丸くなったファニャンが静かに寄り添っていた。
そのぬくもりだけが、今日の出来事を現実として支えてくれている気がした。
(……ラルガス王、優しい人だな……)
王だと知らされていなかったことは、まだ胸に残っている。
けれど、身分を隠した理由には納得できる部分もあった。
民衆の前でも、友人だと言ってくれた。
無理に何かを求められたわけでもない。
(あの手、温かかったな……)
頬に熱が集まる。
それを自覚した瞬間、ファナは枕に顔をうずめた。
「……っ、ばか……」
ファニャンが目を開け、ちらりと彼女を見る。
だが、すぐに興味をなくしたように、また目を閉じた。
窓の外では、月が王城の塔を静かに照らしていた。




