第七十七章『一歩近づく影、心を溶かす時間』
夜の帳が下り、宿の中もだいぶ静まり返ってきた頃。
灯りのともる部屋で、ファナは小さな椅子に腰かけ、窓の外をぼんやりと眺めていた。
月は高く、淡い光がカーテン越しに差し込んでいる。
その膝の上には、丸まった影──ファニャンが、静かにぬくもりを預けていた。
(……なんだろう、この感じ)
胸の奥が、そわそわと落ち着かない。
あの人の言葉、あの眼差し、ふとした仕草のすべてが、心をなぞってくるようだった。
ふいに、ファニャンの耳がぴくりと動いた。
廊下の向こうから、軽やかな足音が近づいてくる。
ファニャンは音もなくファナの膝から降りると、黒い影のようにベッドの下へ滑り込んだ。
──コツ、コツ。
戸口を叩く音。
ファナの心臓が跳ねた。
「……はい」
扉を開けると、そこに立っていたのは──
「こんばんは。また来てしまったね」
ラルガスは微笑みながら、手を軽く上げて見せた。
「ラル……いえ、王太子様……また……」
「ラルガスでいいよ。ここでは形式より、気持ちのままに話そう」
そう言って、彼は自然な仕草で部屋に足を踏み入れた。
ファナは一瞬戸惑ったものの、何も言えず、そのまま扉を閉めた。
「もう少しだけ、君の声が聞きたくてね。迷惑だったかな?」
「……いえ、そんな……嬉しい、です」
自然と、口元がほころんでいた。
「君は……随分と、たくさんのことを我慢してきたんだろう?」
椅子に腰かけたラルガスは、柔らかい声で問いかけた。
「え……?」
「いつも気を遣って、誰かを助けて、それでも笑って……本当は、辛いことだってあったはずだ」
その言葉に、ファナの胸がわずかに震えた。
「……それは……でも、わたしなんて……まだまだで……」
「無理しなくていいんだ。誰かのために笑えることは、それだけで尊い」
ラルガスはゆっくりと立ち上がると、ファナの近くへ歩み寄り、そっとその前に膝をついた。
「君がただ、そこにいてくれるだけで──救われる人がいる。それは、君が“そういう存在”だからだよ」
ファナは目を伏せ、ぎゅっと手を握った。
「……ありがとう……ございます……」
(こんなふうに、誰かに……ちゃんと“わたし”を見てもらえたのって……)
(いつ以来、だったっけ……?)
「……髪、綺麗だね」
ふと、ラルガスの手が伸びて、銀灰の髪をそっと指先で撫でた。
驚いて顔を上げたファナに、彼は柔らかな笑みを返す。
「驚かせたかな。でも、本当に……光のような色だ」
「……そんな、大したことないです……」
(でも……)
(触れられて、嫌じゃなかった)
彼の手が、自分の手を包むように握ってきた。
その体温は、あたたかく、静かで──
「……冷たいね、君の手は」
囁く声が、すぐ近くにあった。
(こんなふうに、誰かと手を繋ぐなんて……)
(この人の隣なら……少しだけ、力を抜いてもいいのかもしれない……)
(もう少しだけ、このままで……)
「ファナ」
囁かれる名前に、ふと目を上げた瞬間、彼の顔が近づいてくる。
その視線は優しく、自分を包むようで──
気がつけば、額にそっと口づけが落ちようとしていた。
(あ……)
ファナは、抵抗しなかった。
むしろ、無意識に、自らその距離を近づけてしまっていた。
そのとき。
──カサリ。
ベッドの下の暗がりから、黒い前足がほんの少しだけ伸びた。
床際に置かれていた小さな木箱が押され、壁へ軽く触れる。
偶然にも思える、ほんの小さな音。
けれど暗がりの奥では、紫の瞳がまっすぐファナを見つめていた。
ファナの耳がぴくりと動き、はっと目を開ける。
「……っ!」
一瞬にして、全身の熱が引いていく。
ファナはすっと体を引き、ラルガスの手から逃れた。
「……ごめんなさい。ちょっと……ぼーっとしてただけです……」
彼女は視線を合わせないまま、かすかな声で謝罪の言葉を紡いだ。
ラルガスは、それ以上何も言わず、静かに立ち上がった。
「……ありがとう。少しでも話せて、よかったよ」
扉の前で、王太子は振り返った。
「……君の笑顔は、宝だね。だから、どうか曇らせないでいて」
そう言って、彼は静かに部屋を後にした。
扉が閉まる。
ファナはその場にしばらく立ち尽くし、そしてゆっくりと椅子に腰を下ろした。
そっと、自分の手を見つめる。
さっきまで握られていた右手が、かすかに震えていた。
(どうして……)
(どうして、あんなふうに優しくされると──)
(……心が、溶けそうになるの……)
「……ダメだよ、わたし……ちゃんとしなきゃ……」
気づけば、ファニャンが彼女の足元に寄り添っていた。
ファナは無言のまま膝に手を置き、その黒い毛並みに触れる。
「ありがとう、ファニャン……」
そのぬくもりに、ほんの少しだけ落ち着きを取り戻せた気がした。
窓の外には、静かな夜空が広がっている。
だが、その空に広がる暗がりは、少しずつ忍び寄っているようにも思えた。
***
──その頃、別の廊下。
誰もいない静寂の中、ラルガス王はゆったりと歩きながら、独り言のように呟いていた。
「……惜しかったな。だが、急ぐ必要はない」
ラルガスは足を止めることなく、静かに続けた。
「人は、望まれる役割を与えられれば、やがてそこを己の居場所と思う」
薄い微笑みが、その口元に浮かぶ。
「彼女の名も、笑顔も、民の信仰も──やがて我が国の秩序となる」
その背後には、もう扉のない檻が、ひっそりと広がっていた。




