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銀髪の猫はなにを願う  作者: 熊猫
第三部

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第七十七章『一歩近づく影、心を溶かす時間』

挿絵(By みてみん)

夜の帳が下り、宿の中もだいぶ静まり返ってきた頃。

灯りのともる部屋で、ファナは小さな椅子に腰かけ、窓の外をぼんやりと眺めていた。

月は高く、淡い光がカーテン越しに差し込んでいる。

 

その膝の上には、丸まった影──ファニャンが、静かにぬくもりを預けていた。

 

(……なんだろう、この感じ)

 

胸の奥が、そわそわと落ち着かない。

あの人の言葉、あの眼差し、ふとした仕草のすべてが、心をなぞってくるようだった。

 

ふいに、ファニャンの耳がぴくりと動いた。

 

廊下の向こうから、軽やかな足音が近づいてくる。

ファニャンは音もなくファナの膝から降りると、黒い影のようにベッドの下へ滑り込んだ。

 

──コツ、コツ。

 

戸口を叩く音。

ファナの心臓が跳ねた。

「……はい」

扉を開けると、そこに立っていたのは──

 

「こんばんは。また来てしまったね」

ラルガスは微笑みながら、手を軽く上げて見せた。

「ラル……いえ、王太子様……また……」

「ラルガスでいいよ。ここでは形式より、気持ちのままに話そう」

そう言って、彼は自然な仕草で部屋に足を踏み入れた。

 

ファナは一瞬戸惑ったものの、何も言えず、そのまま扉を閉めた。

「もう少しだけ、君の声が聞きたくてね。迷惑だったかな?」

「……いえ、そんな……嬉しい、です」

自然と、口元がほころんでいた。

 

「君は……随分と、たくさんのことを我慢してきたんだろう?」

椅子に腰かけたラルガスは、柔らかい声で問いかけた。

 

「え……?」

「いつも気を遣って、誰かを助けて、それでも笑って……本当は、辛いことだってあったはずだ」

 

その言葉に、ファナの胸がわずかに震えた。

「……それは……でも、わたしなんて……まだまだで……」

「無理しなくていいんだ。誰かのために笑えることは、それだけで尊い」

 

ラルガスはゆっくりと立ち上がると、ファナの近くへ歩み寄り、そっとその前に膝をついた。

「君がただ、そこにいてくれるだけで──救われる人がいる。それは、君が“そういう存在”だからだよ」

ファナは目を伏せ、ぎゅっと手を握った。

「……ありがとう……ございます……」

(こんなふうに、誰かに……ちゃんと“わたし”を見てもらえたのって……)

(いつ以来、だったっけ……?)

 

「……髪、綺麗だね」

ふと、ラルガスの手が伸びて、銀灰の髪をそっと指先で撫でた。

 

驚いて顔を上げたファナに、彼は柔らかな笑みを返す。

「驚かせたかな。でも、本当に……光のような色だ」

「……そんな、大したことないです……」

(でも……)

(触れられて、嫌じゃなかった)

彼の手が、自分の手を包むように握ってきた。

その体温は、あたたかく、静かで──

 

「……冷たいね、君の手は」

囁く声が、すぐ近くにあった。

(こんなふうに、誰かと手を繋ぐなんて……)

(この人の隣なら……少しだけ、力を抜いてもいいのかもしれない……)

(もう少しだけ、このままで……)

 

「ファナ」

囁かれる名前に、ふと目を上げた瞬間、彼の顔が近づいてくる。

その視線は優しく、自分を包むようで──

気がつけば、額にそっと口づけが落ちようとしていた。

 

(あ……)

ファナは、抵抗しなかった。

むしろ、無意識に、自らその距離を近づけてしまっていた。

そのとき。

 

──カサリ。

 

ベッドの下の暗がりから、黒い前足がほんの少しだけ伸びた。

床際に置かれていた小さな木箱が押され、壁へ軽く触れる。

 

偶然にも思える、ほんの小さな音。

 

けれど暗がりの奥では、紫の瞳がまっすぐファナを見つめていた。

 

ファナの耳がぴくりと動き、はっと目を開ける。

「……っ!」

 

一瞬にして、全身の熱が引いていく。

ファナはすっと体を引き、ラルガスの手から逃れた。

「……ごめんなさい。ちょっと……ぼーっとしてただけです……」

 

彼女は視線を合わせないまま、かすかな声で謝罪の言葉を紡いだ。

ラルガスは、それ以上何も言わず、静かに立ち上がった。

「……ありがとう。少しでも話せて、よかったよ」

 

扉の前で、王太子は振り返った。

「……君の笑顔は、宝だね。だから、どうか曇らせないでいて」

そう言って、彼は静かに部屋を後にした。

 

扉が閉まる。

 

ファナはその場にしばらく立ち尽くし、そしてゆっくりと椅子に腰を下ろした。

そっと、自分の手を見つめる。

さっきまで握られていた右手が、かすかに震えていた。

(どうして……)

(どうして、あんなふうに優しくされると──)

(……心が、溶けそうになるの……)

「……ダメだよ、わたし……ちゃんとしなきゃ……」

 

気づけば、ファニャンが彼女の足元に寄り添っていた。

ファナは無言のまま膝に手を置き、その黒い毛並みに触れる。

「ありがとう、ファニャン……」

そのぬくもりに、ほんの少しだけ落ち着きを取り戻せた気がした。

 

窓の外には、静かな夜空が広がっている。

だが、その空に広がる暗がりは、少しずつ忍び寄っているようにも思えた。

 

***

 

──その頃、別の廊下。

誰もいない静寂の中、ラルガス王はゆったりと歩きながら、独り言のように呟いていた。

「……惜しかったな。だが、急ぐ必要はない」

ラルガスは足を止めることなく、静かに続けた。

「人は、望まれる役割を与えられれば、やがてそこを己の居場所と思う」

薄い微笑みが、その口元に浮かぶ。

「彼女の名も、笑顔も、民の信仰も──やがて我が国の秩序となる」

その背後には、もう扉のない檻が、ひっそりと広がっていた。

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