第七十六章『蝶は罠に舞い降りて』
街を発ってから数日。整備された街道を北へ進み、一行は最初の中継都市へとたどり着いた。
そこで先行していた使節団の案内役や護衛と合流し、ここから先はレオーネ王国領へ向かう予定だという。
***
日も暮れかけた頃、一行は立派な宿屋に到着した。
「ご夫婦であることは承知しておりますが、使節団の風紀上、男女で部屋を分けさせていただきます。お部屋は隣同士ですので、ご安心ください」
そう笑顔で言ったのは、使節団の手配係。
メルは少し驚いたものの、気にした素振りも見せず、さらりと頷いた。
「まあ、仕方ないな。信頼してるし──な?」
そう言って、ファナの頭を優しく撫でる。
「うん、大丈夫。ありがとう、メル」
笑顔で返すファナだったが、ほんの少しだけ、心の奥に針のような寂しさが残った。
案内された部屋は清潔で、質素ながら温かみのある内装だった。
窓からは中庭の灯りが見え、風に揺れるカーテンが静かに踊っている。
「ふぅ……」
ベッドに腰かけて息を吐く。
ふと視線を巡らせると、持ってきた荷物の中から、黒く丸い影がぬるりと這い出してきた。
「──ファニャン?」
その黒い影は、まるで当たり前のように床を歩き、ベッドの下へ潜り込んでいく。
気のせいか、ファナの呼びかけにも返事はなかった。
「……なんでいるの……?」
呆気にとられながらも、ファニャンの存在はどこか心強く、知らず頬が緩む。
夜が更けた頃、ファナは一人、窓際で月を見上げていた。
まだ眠気はこない。心のどこかが、落ち着かないままだった。
──コツ、コツ。
「……え?」
不意に、扉が優しく叩かれる音。
驚いて振り向いた時には、すでに扉が開きかけていた。
「失礼するよ。話し足りなくてね」
優しげな笑みを浮かべた男──ラルガス王が、静かに立っていた。
「っ……! ど、どうしてここに……」
ファナは戸惑いに声を詰まらせる。
しかし、王はそれを意に介さず、まるで友人宅を訪ねるかのように、ゆったりと部屋に足を踏み入れた。
「夜の散歩のついでに、ね。迷惑だったかな?」
「い、いえ……あの……」
断らなきゃ。そう思うのに、口が動かない。
王の微笑みは、穏やかで──あまりにも、優しかった。
ベッドの端に腰かけると、彼は静かに言葉を紡いだ。
「この宿、静かでいいね。王都の宿舎は、どうしても騒がしくて」
「……そうなんですか」
ファナは用心深く、扉の近くに立ったままだった。
「立たせたままでは申し訳ない。どうぞ、掛けてください」
促され、ファナは少し離れたベッドの端に腰を下ろした。
最初は、確かに距離があった。
けれど言葉を交わすうち、その距離がいつ縮まったのか、ファナ自身にも分からなかった。
「君は……どうして、人にそんなにも優しくできるのかな」
その問いは、不意打ちのようだった。
「えっ……?」
「戦いでも、街の人との関わりでも……。誰かの痛みに、ちゃんと目を向けて、手を差し伸べようとする。たとえ自分が傷ついても」
「……それは……」
ファナは言葉に詰まった。
それは、ファナにとって当たり前のことで。
怖くて、情けなくても、それでも目を背けたくなくて──
「……そういうものだと思って……るだけ、です」
彼女の言葉に、ラルガス王は静かに頷いた。
「ならば、君のような存在が……私の国にもいてくれたら。どれだけ人々の心が救われるだろう」
それは、あまりに自然な“願い”のようだった。
ファナは──知らずに、微笑んでいた。
「さて、そろそろ休もうか」
王が立ち上がり、名残惜しそうに振り返る。
その背を見送りながら、ファナの唇から、ぽつりと言葉がこぼれた。
「……もう、行かれるんですか?」
自分でも驚いた。そんなこと、言うつもりじゃなかったのに。
隣の部屋には、メルがいる。
それなのに、その背が遠ざかることを、なぜ寂しいと思ったのだろう。
ラルガス王は振り返り、柔らかな眼差しで微笑む。
「また明日、きっと」
その声が胸に響く。
まるで眠りに誘う子守唄のように、やさしく。
ファナは呆けたように頷き、その背を見送った。
──その一部始終を、ベッドの下の影から、紫の瞳がじっと見つめていた。
ファニャンは一度も動かなかった。ただ、黙ってその光景を焼き付けていた。
それからしばらくして、風呂から戻ったメルは、隣の部屋の扉の前で足を止めた。
扉の下から明かりは漏れておらず、物音もしない。
「……もう寝たのか?」
小さく呟き、メルは自分の部屋へ戻っていった。
その頃、ファナは明かりを落とした部屋で、ベッドに横たわっていた。
うっすらと目を閉じていたが、まだ完全には眠っていない。
──心臓が、まだ少し速く打っている。
(あの人の言葉……あの人の笑顔……)
「……あの人の国って、どんなところなんだろ」
ふいに浮かんだ言葉が、口から漏れた。
ファナはうっすらと目を開け、窓の向こうの夜空を見つめる。
まだ見ぬ未来。
その先へ続く扉が、静かに開き始めていた。
それが罠だと、ファナはまだ知らない。




