第七十五章『優しき揺らぎ、閉ざされた揺籃(ようらん)』
空は高く、雲は穏やかに流れていた。
遠く離れた地へ向かう使節団の一行が、ゆっくりと街道を進んでいた。
その中には、ひときわ豪奢な装飾を施された白い馬車──ラルガス王が乗る馬車があった。
その屋根の上、風と共に毛並みを揺らしながら、黒い影がじっと息を潜めていた。
ファニャン。
彼は誰にも気づかれぬよう、ずっとそこにいた。
ファナの傍から離れぬために。
***
ファナは、その日ずっと少し落ち着かない気持ちでいた。
初めて訪れる異国。
“王太子”に招かれ、レオーネ王国へ向かっていること。
そして何より──
“王太子”として振る舞うラルガスの、あの優しげな瞳が頭から離れなかった。
「ファナさん、お疲れでしょう。よければこちらの馬車でお休みになりませんか?」
その申し出は、自然なものだった。決して強制ではなく、断ろうと思えばできた。
──でも。
彼の声は、まるで風の中に溶けていくようだった。
無理をしているわけでもない。
けれど、どこか寂しげで、
心の底から「誰かを信じたくて、触れたくて、けれど触れられない」とでも言うような、
孤独を感じた気がして──
「……お邪魔します」
そう言って頷いてしまった自分に、ファナはどこか戸惑っていた。
***
馬車の内部は、思っていたよりもずっと静かで、心地よい温もりがあった。
厚い布地に覆われた座席。淡く香る花の香り。微かに響く馬の足音。
ファナが腰を下ろすと、ラルガス王は穏やかに微笑んだ。
「お怪我などはございませんか? ……昨日も、たくさんの子どもたちに囲まれていたとか」
「あ……いえ。大丈夫です。皆さん、いい子で……」
「ええ。貴女に触れようとして、我を忘れるほどにね。……まるで信仰だ」
「……そんな、大げさな……」
「──貴女は、それを嫌だと思いますか?」
優しい声音だった。
けれど、どこか試すような響きも、確かにあった。
「嫌……っていうより、なんというか……」
ファナは言葉を探すように、膝の上で両手を握った。
「“神様”なんて、わたしはなれないのに……。そう見られてるって思うと、怖くて。
何か失敗したら、信じてくれてる人を裏切ることになるんじゃないかって……」
「──それは、貴女が優しいからですよ」
王の声が、さらに静かに、低く響いた。
「民は、王家に“完全”を求める。けれど私は、完全であったことなどない。……ただ、彼らがそうあってほしいと望むから、“王太子である”私を演じるだけです」
「……それって……」
「孤独ですよ。ええ、とても……」
その言葉に、ファナはわずかに胸を突かれた。
「けれどね、ファナさん。私が“王太子”であるように、貴女もまた“神”であることを望まれている。……ならば、それを否定しすぎるのも、苦しみを呼ぶだけかもしれません」
「……」
ラルガス王は、ふと視線を落とし、そっと手を伸ばした。
「緊張しているのです。私も、こうして貴女といると、少しだけ鼓動が速くなる」
ひやりとした手が、ファナの手に触れた。
「……もしよければ、もう少しの間……握っていてもらえませんか?」
その声音は、まるで壊れ物に触れるように優しかった。
ファナは一瞬、ためらった。けれど──
(……この人は、“わたし”を見てくれている……?)
そう思いかけて、胸の奥が微かにざわついた。
メルなら、もっと不器用に笑う。
こんなふうに、欲しい言葉だけを綺麗に並べたりはしない。
握られた手に、力を入れることも、引き抜くこともできなかった。
馬車の揺れと淡い花の香りが、考えようとする心をゆっくりと鈍らせていく。
***
「……疲れておられるのですね」
王が、そっと囁いた。
「よく頑張っておられる。その姿は、本当に美しい……」
ファナは、何も言えなかった。
ただ──そのまま、気づけば王の肩に小さく身体を預けていた。
淡い花の香り。
規則正しい馬車の揺れ。
責めることも、急かすこともない声。
それらが、張り詰めていた心を少しずつ緩めていく。
まぶたが重い。
眠ってはいけないと思うのに、身体は静かに力を失っていった。
──誰かに甘えるなんて、久しぶりで。
──誰かに、「大丈夫」と言ってもらえることが、こんなにも優しいなんて。
王は何も言わず、ただ静かに、微笑んでいた。
そのまま彼女の頭を傷つけぬよう、支えるように、手を添える。
「……貴女のような方を、このままにはしておけない」
ごく小さく呟いたその言葉は、眠りかけた少女の耳には届かなかった。
***
馬車の外。
メルは馬を並走させながら、何度も、白いカーテンの奥を見やった。
「……何を話している」
彼は思わず呟く。
(声も聞こえない。視線も通らない。けれど──)
自分が、どうしようもなく不安を覚えていることが、何より悔しかった。
ラルガス王太子が“敵”とは断定できない。
彼の言動は、常に穏やかで、礼儀に満ちていて──何一つ非礼はない。
それでも、ラルガス王太子がファナに触れたあのとき、心の奥がざらついた。
「……俺は、あんなふうに迷いなく踏み込めない」
ファナが嫌がるかもしれない。
彼女の意思を奪うかもしれない。
そう考えるたび、メルは一歩を待った。
だが、あの男は違う。
優しさの形を借りて、ためらいなく距離を詰めていく。
「……ラルガス王太子には、ファナに触れてほしくない」
その独白は、かき消されるように風に散った。
***
やがて、馬車は最初の宿泊地に到着した。
そっとまぶたを開けたファナは、ふわ、とあくびをした。
「……ん……寝ちゃった……」
そのことに、特に違和感を覚えないまま、ほのかに笑みを浮かべた。
「……王太子様って、優しい人なんだな……」
心がほんのりと温かい。
まるで、守られていたような気がして。
ファナは自分の胸に手を当て、小さく頷いた。
馬車の上。
ファニャンがぴくりと耳を立て、じっと、その気配の変化を窺っていた。
彼は動かない。
ただ──
扉が閉ざされた揺籃の中で、何かが静かに変わり始めている。
そのことだけを、本能で感じ取っていた。




