第七十四章『銀猫、揺らぐ鼓動のままに』
初夏の陽が、石畳に柔らかく差し込んでいた。
遠くで鐘が鳴り、王都へ続く街道沿いの都市はざわめいていた。
その中心では、レオーネ王国の使節団を迎えるための歓迎式典が開かれていた。
色鮮やかな旗が掲げられ、通りには市民たちが列を成していた。
***
「ようこそおいでくださいました。レオーネ王国よりお越しの、友好使節団の皆様──」
歓迎の挨拶と共に、重厚な馬車から降り立った男がいた。
金茶の髪を後ろで束ね、漆黒と緋を基調とした旅装。
柔らかな笑みを湛えながらも、目の奥に影を宿す。
──ラルガス・ディエン。
レオーネ王国の現国王。
だがこの日、使節団の書状にも彼の身分は“王太子”と記されていた。
王自身が用意した偽りを、異国の者が疑う理由はなかった。
「うん……すごい人……」
ファナは思わずそう呟いた。
その背後に立つメルが、そっと目を細めた。
ファナとメルは、ギルドの推薦によって「使節団の案内役」として選ばれていた。
友好視察という名目でありながら、その空気はどこか緊張を孕んでいた。
ラルガス王は、ファナに向けて丁寧に頭を下げた。
「……まさか、貴女にお会いできるとは。
“銀猫”という噂は耳にしておりましたが……お美しいだけでなく、柔らかな気配を纏っていらっしゃる」
「えっ……い、いえ、わたしなんて……」
ファナは赤面しながらも、自然と背筋を伸ばした。
だが、ラルガス王の視線に、どこか言葉にできない“圧”を感じていた。
──深い湖の底のような目。
一歩も逃れられない、静かな吸引力。
***
案内中、広場を通りかかったとき──
「銀猫さまだっ!」
小さな子どもが駆け寄ってきた。
ファナは戸惑いながらも、しゃがんで優しく微笑んだ。
「えへへ……びっくりしたよ」
「神様みたいにすごいんでしょ! 銀の毛が光ってたって聞いたよ!」
その言葉に、ラルガス王がそっと目を細めた。
「……やはり、貴女は特別な存在なのですね」
「そんな……わたしは普通の……ただの冒険者です……」
ファナは首を振ったが、王は静かに返した。
「人々は、“救われた”という実感を持った時、
それがどんなに小さくとも、必ず“名”を与えるのです。
──それが、神と呼ばれるものの始まりです」
その言葉と同時に、王は自然な動作でファナの手に触れた。
「……失礼。貴女の手は、不思議と心を落ち着かせる」
ファナは驚いたが、咄嗟に振りほどくこともできず、手を見つめたまま固まっていた。
「もしよければ……もう少しの間だけ、握っていてもらえますか?」
「殿下、それは……」
メルが低く声を挟んだ。
その直後、控えていた側近がラルガス王の耳元へ身を寄せた。
「殿下。銀猫殿にはご夫君がいらっしゃいます。公の場での過度なご接触は、無用の憶測を招きかねません」
「……それは失礼しました」
ラルガス王は素直に手を離し、ファナとメルの双方へ頭を下げた。
「他国で少し気が張っていたようです。どうか、無礼をお許しください」
「い、いえ……」
王太子という立場にありながら、側近の指摘を受け入れ、すぐに非を認める。
少なくともファナの目には、ラルガス王は礼節をわきまえた常識的な人物に映った。
メルの眉がピクリと動いた。
王の手つきは優しく、穏やかに見えた。
だが、手を離す直前まで、“離さない”という意志が、確かにそこに宿っていた。
***
視察が終わった頃、王はふとした調子で言った。
「貴女のような方にこそ、我が国の空気を感じていただきたい。
よろしければ、お二人を我が国の客人としてお招きしたい。レオーネ王国へ来てはいただけないでしょうか?」
ファナは息を呑んだ。
辺りには、王国の役人、使節、ギルドの重鎮たち──
みな、名誉なことだと言わんばかりに頷いていた。
断れば、波紋を呼ぶ。
そして──ラルガス王の微笑みは、どこまでも優しく、どこまでも逃げ場がなかった。
「……はい。よろしくお願いします」
ファナが答えると、メルも静かに頷いた。
ラルガス王は、二人へ丁寧に頭を下げた。
「ありがとう。お二人のご厚意に、深く感謝を」
その光景を、メルは黙って見つめていた。
ラルガスは側近の忠告を受け入れ、すぐに手を離した。
非礼を詫び、二人を等しく客人として招いている。
表向き、これ以上口を挟む理由はどこにもなかった。
──明確な害意はない。
だが、あの男の手に宿っていた意志を、見間違えたとも思えなかった。
空が、微かに陰った。
けれどまだ、その冷たい意志がどこへ向かうのか、誰も知らなかった。
──記録『銀猫継記』より
「銀猫が、その手を振りほどかなかったのは、慈しみのためか、
それとも、まだ“名もない何か”に怯えていたからか。
握られたその手から、未来がゆっくりと揺れていく。
心の鼓動は、まだ誰にも聞こえていなかった」




