第七十三章『銀猫、王宮へ招かれる』
王城の一室。重厚な帳が、開け放たれた窓から入る風に揺れていた。
その中央に立つ男の佇まいは、あまりにも静かだった。
だがその背中は、剣より鋭く、雷よりも恐ろしい。
レオーネ王国国王──ラルガス・ディエン。
その眼差しは今、銀糸を織り込んだ絹布で作られた、小さなぬいぐるみに注がれていた。
銀髪、猫耳、赤いリボン。
胸には小さな──だが確かに、信仰の象徴となる紋が織られている。
「……これが“銀猫”と呼ばれる存在か」
言葉は呟きだった。
しかし、その場には、呼吸すら許されぬほどの緊張が走った。
王は腰を下ろし、指でぬいぐるみの耳をつまんだ。
「可愛らしいな。だが──可愛い、というだけではない」
側近が一歩前に出て、淡々と報告する。
「件の少女・ファナ・ラムゼリア。近年、各地で目撃証言が相次いでおります。
羽衣をまとって走った姿が目撃されたともいわれ──それも、信仰を深める神秘として扱われています」
「羽衣をまとって、か」
ラルガスの眉がぴくりと動いた。が、それ以上の反応は見せない。
「……よい。事実か否かは重要ではない。人々が“何を信じているか”がすべてだ」
「……はっ」
***
ラルガスは椅子から立ち上がると、窓辺へと歩み寄った。
遠く、王都の白い塔が連なる景色。
風がその金色の髪を揺らす。
「我が父は戦によってこの国を大きくした。
だが、戦による安寧は長く続かぬ。勝者の背には必ず不満が残る」
ラルガスは、窓の外に広がる王都を見下ろした。
「ならば、民が自ら信じ、心を預けられるものを国の中心へ置く。
信仰が民を結ぶのなら、王はそれを正しく導かねばならぬ」
ラルガスは、机上の銀猫を静かに見下ろした。
「ファナ・ラムゼリアを王宮へ迎える。妃として」
一拍の沈黙。
だが、それが命令であることに疑いはなかった。
「まずは正式な使節を組め。丁重に、礼を尽くして迎えるのだ」
「拒まれた場合は、いかがいたしましょう」
「その時は、国にとって最も正しい形を選ぶ」
側近は口元を引き結び、深く頭を下げる。
「……かしこまりました」
***
その夜。
王城の外壁に、風が吹き抜ける。
高台に佇む黒衣の女が、静かに空を見上げていた。
ヴェルナ・クローデル。
塔の窓から見える王の私室には、小さな銀猫のぬいぐるみが置かれていた。
「舞台は整いつつある。さて──最初に綻ぶのは、どこかしら」
彼女の意識は、未だ気づかぬ王と、遥か遠くの“銀猫”へ向けられていた。
──記録『銀猫継記』より
「支配は形を変え、信仰は風に乗る。
王は求め、少女は戸惑い、舞台は静かに音を立てて崩れ始めた。
されど誰も気づかぬ──神を所有しようとしたその瞬間に、
神話の扉は閉ざされることを」




