第七十二章『銀猫、世界に知られる日』※挿絵有り
朝。小さな家の窓辺に、柔らかな陽が差し込む。
クッションの上で、黒猫──ファニャンが小さく丸まって寝息を立てていた。
ファナは静かに湯を注ぎ、メルに紅茶のカップを差し出す。
「うん、おいしい……」
「君が淹れると、どんな茶葉も美味になるね。これはもう才能だよ」
「も、もう……口ばっかりなんだから……」
ファニャンの尻尾がゆらりと揺れる。平和な朝。ごく普通の日常。
──そう思っていた、ほんの少し前までは。
***
「銅像は禁止されたけどさ、他所じゃ普通にあるらしいよ?」
市場の賑わいの中、通りすがりの声が耳に入る。
「銀猫様の髪を再現した絹織物が売ってるとか……」
「抱き枕も人気らしいよ、あの猫付きの」
ファナは顔を引きつらせたまま、手にしていた野菜を落としそうになる。
「……ぬいぐるみくらいなら、もう……仕方ないって思ってたけど……」
そう言いながら、視線の先──とある露店の棚に、ひとつだけ異質な物があった。
「……な、なにこれ……」
小さなぬいぐるみ。
銀髪の猫耳少女の形をしており、背には例の赤いリボン。そして──
「……!? マントだけ!? いや、“羽衣マント”って……!!」
口を押さえながら震えるファナの隣で、ファニャンがふらふらと店先に近づいた。
「ファ、ファニャン、それは……! それだけはダメぇぇぇぇぇええええ!!!」
──だが、すでに遅かった。
黒猫は素早くジャンプし、問題の“羽衣マントぬいぐるみ”を咥えると、そのまま露店から猛ダッシュ。
「待ってぇぇえええ!! 返してええええ!!」
「……あれは……銀猫?」
「神話にある、“猫の導き”だ……」
「ぬいぐるみを咥えて導く神猫……!? 新たな逸話か!?」
周囲の民がざわつく中、ファナが全力で通りを駆け抜ける。
その先を、ファニャンが全力で逃げていた。
「やめてええええええ!! それ、奉納されちゃうううう!!」
メルは路地の屋根の上からそれを見下ろし、ため息をついた。
「……やれやれ。君はほんと、話題に事欠かないね」
そして、詠唱もなく展開される術式。
空中に雷の魔法陣が描かれ、ファニャンの目前にふわりと出現した金色の光球。
反応した猫はくるりと宙返りし、咥えていたぬいぐるみを思わず放り投げた。
そのまま光球が包み込むように捕捉。ふわりと空中で停止。
地上では、ぜえぜえと肩で息をするファナが、ようやく追いついた。
「も、もう……ほんと、やめてぇ……」
ファニャンはすっと彼女の足元に戻り、しれっとした顔で座る。
「……ふにゃ」
「怒ってないよ……怒ってないけど……でも、ほんと、これはだめだからね……!」
***
その様子を、少し離れた馬車の中から静かに見つめていた一団があった。
一見すれば裕福な旅商人にも見える男が、穏やかに呟く。
だが、その仕草には隠しきれない王族の気品があった。
「……面白いものを見た」
「お言葉を返すようですが……今のは単なる騒動かと」
「否。あの猫と少女、そして男。周囲の反応──それら全てを含めて、何かがある。……彼らの名は?」
「“銀猫”と“金雷”と呼ばれております。近年、各地で目撃され、奇跡と共に語られる名です」
「銀猫……金雷……。ふむ」
男──ラルガス・ディエンは、小さく笑った。
「では、我が国にも銀猫のぬいぐるみを一体持ち帰ろう。……羽衣マントではない方を、だ」
「かしこまりました」
控えていた従者の一人が、何食わぬ顔で馬車を降りる。
ラルガスは椅子に身を預け、その背を見送りながら呟いた。
「静かな足音で、世界に名を刻む者たち。……ふふ。興味深い」
***
その日の夜。
家に戻ったファナは、クッションの上で丸くなるファニャンを見つめて、どこか放心したように呟いた。
「……わたし、なんか……世界に知られてない……?」
「君が今さら何を言うのさ」
紅茶を差し出しながら、メルが微笑んだ。
「でも、大丈夫。神様じゃなくても、君は君だ。……だから、信じられてる」
「……うん。でも……羽衣マントはほんとにやめて……」
ファニャンがくるりと一回転して、クッションに鼻先を押し付ける。
すべてをやりきった顔だった。
──記録『銀猫継記』より
「銀猫の名、風を越えて遠くへと届きぬ。
それは意志にあらず、されど願いのかたち。
静かなる猫の足音に、王国すら耳を澄ます」




