第七十一章『銀猫、またひとつ踏み出す』
朝の空気は少し冷たく、けれど清々しい。
ファナは軽く背伸びをすると、にこりと笑って一歩を踏み出した。
「行こっか、ファニャン。……メルも!」
「ふふ。君がその気なら、どこへでも付き合おう」
「……ふにゃ」
玄関を出て振り返ると、扉の脇には小さな供物台。
今日も果物やお菓子がずらりと並んでいる。
だがファニャンはもはや気にせず、当然のように荷袋の上へ飛び乗って、ぐるぐると丸まりはじめた。
ファナは思わず苦笑して、黒猫の頭をそっと撫でる。
「じゃあ今日は、冒険者として。……“神様”じゃなく、ちゃんとお仕事だよ」
***
ギルドの掲示板を前にして、ファナは少しだけ目を輝かせた。
最近、ギルドへ顔を出しても、ファナのもとへ集まるのは供物や肖像画、
「神の加護を賜る方法を教えてください」といった相談ばかりだった。
普通の冒険者として依頼を探すことさえ、どこか久しぶりに感じられる。
けれど、今日は違った。
「……あった。これ……普通の討伐依頼、だよね?」
ファナが指さした紙には、しっかりとした筆跡でこう書かれている。
『近郊の山道にて、地棘猪と思われる魔物の目撃情報あり。
被害も複数発生。討伐を求む。報酬:銀貨15枚。討伐部位の状態に応じて追加報酬あり』
「地棘猪……まあ、危険度は中級程度。二人いれば問題はないかな」
「うん、行ってみたい。……わたし、やってみたい」
メルが笑って頷く。
「もちろん。じゃあ、銀猫隊──いざ出陣、だね」
メルはからかうように言う。
その足元で、ファニャンがぴくりとも動かずに寝息を立てている。
荷袋の上で丸まったまま、すでに“出発準備完了”のようだ。
***
依頼のあった山道までは、街から歩いて小一時間。
風が木々を揺らし、鳥の声が遠くで響いていた。
歩きながら、ファナはふと呟いた。
「……昔のわたしなら、こういう依頼、怖くて逃げてたかも」
メルは横顔だけで笑った。
「逃げたっていい。でも、進もうとしてる今の君も、素敵だよ」
「……うん。ありがとう」
そのとき、茂みの奥でファニャンの耳がぴくりと動く。
次の瞬間、空気が張り詰めた。
「来る!」
メルの声に続き、ファナは短剣を抜いて構える。
茂みをかき分けて現れたのは、巨大な猪のような魔物──地棘猪だった。
身体全体に岩のような棘をまとい、突進してくる凶暴な獣。
「来ないでっ!」
ファナが叫びながら踏み込み、短剣を振るう。
だが、分厚い皮膚と突進の勢いに弾かれ、体勢を崩して地面に転がった。
魔物の牙が振り下ろされる。
その瞬間──
「ふにゃっ!」
ファニャンが飛びかかり、魔物の目を鋭く引っ掻いた。
悲鳴のような咆哮。視界を奪われた地棘猪がよろめく。
そして、ファナの視界に映る──
風を纏うように立つ、金髪の魔術師。
「雷紋、束ねよ。我が導きに応えよ──」
空気が震える。
「《雷鎖結陣》!」
雷の鎖が編まれ、魔物の足元からうねるように立ち上がる。
力強く、しなやかに、確実に──魔物を縛り上げていく。
「今だ、ファナ!」
「……うんっ!」
立ち上がったファナは、鎖に囚われた魔物の首元へ踏み込んだ。
一閃。短剣が急所を斬り裂く。
地棘猪は力なく倒れ込み、沈黙した。
***
草の上にぺたりと座り込んで、ファナは深く息を吐く。
疲労よりも、胸の奥が少し温かかった。
「……ありがと、ふたりとも」
「ふにゃ」
ファニャンが近寄り、そっと頬をぺろりと舐める。
その感触に、ファナはくすぐったそうに笑った。
メルはそっとその隣に座り、空を見上げる。
「戦って、助けて、笑う。……普通の冒険者としての一日。久しぶりだね」
「うん、ほんとに……久しぶり」
***
帰り道。
山道の木漏れ日の中を歩きながら、ファナはふと口を開いた。
「ねえ……こうして誰かを助けるたび、また“神様”って言われるのかな」
メルはしばし考えてから、静かに答える。
「かもしれない。でも、君が“神様になろうとしてる”わけじゃない。それが大事なんだよ」
「……そっか」
ファニャンが木の枝の上から、ぽすんと飛び降りてきた。
ふたりの肩を、器用に渡り歩いていく。
ファナはその温かさを感じながら、ぽつりと呟く。
「……それなら、もうちょっとだけ、信じてみようかな。わたし自身を」
──神様じゃなくても。
誰かのために踏み出すなら、それはもう、きっと。
「神とは選ばれるものにあらず。
踏み出した一歩に、人々は名を与える。
それが希望と映ったなら──それを神と呼ぶ者がいても、歩みを止めることなかれ」
──『白衣銀猫教典』第五章「踏みし者の記」より




