第七十章『銀猫、呼ばれた名を越えてゆく』※挿絵有り
夕暮れ。山あいの細道を、ファナとメル、そして肩に乗ったファニャンが進んでいた。
二人と一匹の影が、朱色の光の中に長く伸びている。
「……今日、あの子の笑顔、ほんとに嬉しかった」
ぽつりとファナが呟く。木々の影が、細長く地面に伸びている。
「そうだね」
メルも穏やかな声で応える。
「“神”じゃなくても、人は笑う。笑ってもらえることがどれほど尊いか──それは、君がいちばん知っている」
ファナは少し照れたように笑い、肩のファニャンの背をそっと撫でた。
そのときだった。
ファニャンの耳がぴくりと動いたかと思うと、突如、肩から飛び降りて森の奥へ駆け出した。
「ふぁっ、ファニャン!? どこ行くの!?」
驚いたファナが走り出す。メルもすぐに後を追った。
木立を抜け、小さな谷間に出た。そこに横たわる、小さな人影。
傍には、小さな籠と、摘みかけの薬草が散らばっていた。
「……子ども?」
ファナが駆け寄り、その体を揺すった。
「目を覚まさない。息はあるけど、すごく浅い……」
額に手を当てたとき、ざわりと空気が揺れた。嫌な気配。魔力のようで、けれど濁った感触。
「瘴気だ。古い封印が緩んでいる」
メルが低く言った。
「強いものではない。だが、子どもには毒になる」
ファナは唇を噛んだ。
「わたし……どうしたら……」
迷いの中、倒れている子どもの手がわずかに動いた。その小さな指が、空を掴むように震えていた。
──誰かを、求めるように。
その姿を見て、ファナは拳を握った。
「……神様だから、じゃない」
声はかすれていたが、確かに届く。
「わたしが、助けたいから助けるんだよ。名乗らなくても、“ファナ”として、そうしたいって思ったんだ」
隣でメルが微笑む。
「なら、俺も手伝おう。名も肩書きも関係ない。ただ、必要なことをしよう」
封印の構築は、時間との戦いだった。
メルが地面に新たな術式を描き、ファナが教えてもらいながら補助結界を組み合わせて展開する。
「ファナ、そっちの符、今!」
「うん、行くよ!」
二人の息はぴたりと合っていた。術式が淡く光り、瘴気が収束されていく。
やがて谷の気配が静まり、風が通り抜ける。
倒れていた子どもが、うっすらと目を開けた。
「……だれ、か……」
「……大丈夫。もう安心だよ」
ファナはしゃがみこみ、そっと手を差し出す。
子どもはその手を握り、小さく笑った。
「……ありがとう、お姉ちゃん……」
ファナの瞳に、じんわりと涙が滲んだ。
「……うん。よかった」
村に戻ると、驚きと感謝の声があがった。
倒れていた子どもの家族が駆け寄り、深々と頭を下げる。
「命の恩人です……ありがとうございます、本当に……!」
けれど、その中に「神様」という言葉はなかった。
「ファナさん」
誰かが、そう呼んだ。
銀猫様ではなく。
神様でもなく。
ファナさん、と。
ファナは胸の奥があたたかくなるのを感じた。
神様じゃなくても。名前ひとつで、届く想いがあるのなら。
帰り道、森を抜ける小径で、ファナは小さく息をついた。
肩に戻ったファニャンが、心地よさそうに丸くなる。
「……神様じゃなくても、誰かを笑顔にできたなら──」
ファナは空を見上げて囁いた。
「それだけで、十分かもね」
ファニャンが「ふにゃ」と返す。
「……ねえ、なんであんたが人気あるんだろ……ずるいなあ」
ファナは少し笑って、指でファニャンの額をこつんと撫でた。
「名を呼ばれど、名に縛られず。
神と呼ばれど、人として歩む。
ただ、笑顔の傍に在れ──それが銀猫。」
──白衣銀猫教典 第四章『帰るその道にて』より




