第六十九章『銀猫、願いを届けるだけでいいなら』※挿絵有り
ギルドの朝はいつも少し騒がしい。
けれど今朝の空気は、どこか不思議な静けさを含んでいた。
木製のカウンター越しに立つミリアが、手紙を持ったまま眉を寄せていた。
ファナが近づくと、彼女は小さく囁く。
「ファナ。……君宛の、ちょっと変わった依頼が来てるよ」
「えっ、わたしに?」
ファナが受け取った便箋は、手触りの良い厚紙で、淡い花模様が縁に印刷されていた。
封を開け、中を読む。
「銀猫様へ。
病気のために外へ出られない私の息子に、一度だけ、あなたの姿を見せていただけませんか。
あの子は、あなたを“本物の神様”だと信じています。
奇跡も、加護も、何も求めません。どうか、ただ、一目──」
読み終えたファナは、そっと手紙を伏せた。
心の奥が、やさしく痛んだ。
「また……神様扱い、だよね……」
「うん。でも、この人は“お願い”してるだけ。“信仰”よりも、“願い”の形に近いと思う」
ミリアは優しく言葉を添えた。
「神様じゃないって、ちゃんと伝えてもいい。行くかどうかは……ファナが決めていいんだよ」
***
帰宅したファナは、湯気の立つ紅茶を両手で包んでいた。
ソファの向かいでは、メルが静かに新聞をめくっている。
「……私が、行って。本当に、意味あるのかな」
ぽつりと落ちたその声に、メルは新聞を閉じて、視線を向けた。
「意味があるかどうかは、誰かが決めることじゃない。
……でも、君が“笑顔”を届けられるなら、それは十分だと思うよ」
「……笑顔、か」
「奇跡じゃない。“君”がそこにいること。それが誰かの力になることもある」
ファナは黙ってうなずいた。
その時、トン、と音がして、ファニャンが跳ね上がってくる。
軽やかにファナの膝に飛び乗ると、そのまま丸くなって喉を鳴らしはじめた。
そのあたたかさに、ファナの表情が少し緩む。
「……ファニャンも一緒に来てくれる?」
“ふにゃっ”と返事のように鳴く声。
ファナは小さく息を吐いて、目を閉じた。
***
郊外の小さな家は、庭先に花が咲いていた。
玄関を開けた女性は、やや疲れた表情だったが、それでも柔らかい笑みを浮かべていた。
「ようこそいらっしゃいました……本当に、ありがとうございます」
「えっと、あの……私は神様じゃないですから、あまり期待は……」
「ええ。わかっています。……でも、あの子が、あなたに会えると聞いた時、本当に嬉しそうで」
そう言って彼女は家の中へと案内してくれた。
部屋の中には、穏やかな光と、たくさんの絵本やぬいぐるみ。
そして──窓際のベッドに、小さな男の子が横たわっていた。
目を大きく見開き、口元にうっすらと驚きの色を浮かべる。
「……ほんとに……銀猫様……?」
ファナは、足がすくみそうになるのをなんとか堪えて、ぎこちなく笑顔を作った。
「あ、あのね……神様じゃなくて、ただの冒険者なんだ。だから──」
その言葉を遮るように、ファニャンがするりと床から飛び乗り、少年の胸の上にちょこんと座った。
「……ふわふわだ……あったかい……」
その言葉に、ファナは自然と微笑んでいた。
「ね? この子は、黒猫なんだよ」
──その瞬間、ふわりと魔力が揺れた。
ファニャンの毛並みが、陽光を受けて、ほんの一瞬だけ銀色に見えた。
少年の目が、驚きに染まる。
「……すごい……ほんとに……銀猫様だ……!」
手を伸ばし、そっとファニャンの背を撫でる。
ファニャンは何事もないように喉を鳴らしていた。
***
帰り際。玄関まで見送った母親が、深く頭を下げた。
「この子が……笑ったの、何ヶ月ぶりかしら。……本当に、ありがとうございました」
「でも、私……私は、神様なんかじゃ……」
「わかっています。神様かどうかなんて、私にはわからない」
その言葉に、ファナの瞳が揺れる。
「でも……あなたが来てくれた。それが、全部なんです」
涙がにじみそうになって、でも、ファナは泣かなかった。
笑った。
「……うん。ありがとう。来て……よかった」
***
夕焼けに染まる帰り道。
ファナはファニャンを肩に乗せ、静かに歩いていた。
風が、優しく頬を撫でる。
「神様じゃなくても……誰かを笑顔にできたなら、それだけで、十分かもね」
“ふにゃ”と、ファニャンが短く鳴く。
ファナはくすっと笑って、肩をすくめた。
「……ねえ、なんであんたがそんなに人気あるんだろ。ずるいなあ」
ファニャンは得意げに胸を張った。
──白衣銀猫教典 第三章「ありがたき訪れ」より
神かどうかは知らぬ。けれど、わたしは笑えたのだ。
わらったとき、猫がいて、猫のそばにあの子がいた──それで十分だろう?
──奇跡じゃなくていい。
ただ、願いを届けられたのなら──それで、きっと、十分だ。




