第六十八章『銀猫、追われて逃げて、問いかける』※挿絵有り
朝の光が、カーテン越しにやわらかく差し込んでくる。
小さな家の居間。ほんのり紅茶の香りが漂うその空間で、ファナは静かに窓辺の椅子に座っていた。
手元には湯気の立つティーカップ。耳が少しだけピクリと動く。
「……また来てる。これで何日目……?」
外からは、小さな足音や話し声。
見なくてもわかる。きっと、今日も供物台に“奉納”が届いているのだ。
干し魚。ミルク。花。たまに猫用クッション。
それは全て、ファニャン──銀猫様の使いとも、神の猫とも呼ばれ始めた黒猫──への信仰の証。
ファナは小さくため息をついた。
「ファニャン……もうあの場所、あんたの宝箱みたいになってるよ」
部屋の隅で新聞を広げていたメルが、わずかに微笑む。
「見出しには“銀猫様、御加護を垂れる”……。ふむ、今日は“病が癒えた”という話のようだね」
ファニャンはその間も当然のように供物台から戻ってきて、干し魚をひとつ咥えている。
咀嚼音も気にせず、ぽてっと床に寝転がり、満足げにゴロリ。
ファナはその様子を見て、思わず肩の力が抜けた。
「……まぁ、いいけどさ」
***
昨日の一件で、もう二度とないと思っていた。
けれど、猫の善意に“反省”という概念はなかった。
それは唐突に起きた。
ファニャンが裏口から、いつものようにトテトテと帰ってきた──が。
くわえていたのは、今日に限って、“生きていた”。
「ん……? ファニャン、それ……」
次の瞬間、それは地面に“ぽとり”と落とされた。
――ピクリ、と動く影。
「ひ……ひゃ、ひゃ、ひゃああああああああああああっっっっ!!?」
それは、生きたネズミだった。
しかも、大きい。
ネズミは目を光らせて、一瞬ファナを見たかと思うと──走り出した。
「いやああああああああああああああっっっ!!!」
ファナが部屋を飛び出す。
ネズミも逃げる。
なぜか、ファナの行く先へ逃げる。
ファニャンが追う。
ファナが叫ぶ。
ファニャンが嬉しそうに“にゃっ”と鳴く。
「ちがっ、やめて、そっち来ないでぇぇぇぇえええ!!」
ソファの上、棚の下、台所まで巻き込んで繰り広げられる三すくみ追走劇。
その一部始終を、メルはソファに座りながら優雅に紅茶を啜って見守っていた。
ただし、指先にはいつでも捕獲できるよう、細い魔力糸が揺れている。
「……うん。平和だね」
***
やがて、ネズミはファニャンにくわえ直され、“そっと外へ連れて行かれた”。
無事、自然へ帰されたらしい。
部屋の中は若干の荒れ模様だったが、何よりファナが生きていた。
「も、もうやだぁ……ネズミ、やめて……」
崩れ落ちるように床にぺたんと座り込み、額に汗をにじませながらファナは涙目で嘆いた。
その横でファニャンは再び供物台の干し魚をくわえて、もぐもぐとご機嫌な様子。
「……あの子なりに、元気づけようとしてるんだろうけど……もうちょっとこう、なんとかならないかな……」
ようやく一息ついたファナは、ソファに座るメルの隣に腰を下ろした。
しばらく沈黙が流れたあと、ぽつりと漏れた声は、ふとした風のように小さかった。
「ねえ……わたしって、ほんとうに“神様”なのかな……?」
メルは一瞬だけ視線を伏せた。
そして、ファナの手元にあるカップが空であることを確認しながら、そっとお代わりを注ぐ。
「違うよ」
静かな、けれどはっきりとした声。
「君は、君だ。それ以上でも、それ以下でもない」
「……」
「でも──君の優しさに救われた人からすれば、君は“神様のような存在”かもしれないね」
紅茶の香りがふわりと広がる。
「それを“神”と呼ぶか、“友達”と呼ぶか、“希望”と呼ぶかは──その人次第さ」
ファナは、うつむいたまま、少しだけ口元をゆるめた。
「……なんかずるい答え」
「褒め言葉だと、受け取っておくよ」
言葉を交わしたあと、二人は静かにティーカップを合わせた。
ティン、と小さな音が響く。
***
夜。
布団に横になったファナの胸の上に、いつものようにファニャンがトテトテと登ってくる。
「……今日はありがとね。ネズミは……ちょっとあれだったけど」
ファニャンはお構いなしにゴロゴロと喉を鳴らしながら、胸の上でくるんと丸くなる。
重さと温もりと、心地よい振動。
「……ほんと、君がいると救われるよ」
ファナは目を閉じ、そっと撫でた。
遠く、外では風鈴が小さく鳴っていた。
何の音もない夜。誰にも見られない時間。
けれど確かに、ここには“本当の救い”があった。
──神とはなにかと、誰かが問うた。
答えは、布団の上に丸くなっていた。
──記録『雷来々抄』猫信篇より
そして夜は静かに更けていく。
銀猫と、黒猫と、そして一杯の紅茶の香りと共に。




