第九話 国中に名前が降る
ネムの貝殻から溢れ出した名前は、波に乗って海全体へ広がっていった。
それは単なる音ではなかった。潮の心臓へ向かって、一直線に吸い込まれていく。長年、王国の記録から削られてきた何千人分もの記憶――名前も、生きた証も、抗うすべもなく奪われてきた者たちの声が、装置の処理できる限界をはるかに超えて流れ込んでいった。海面はその奔流を受けて激しく波立っていた。
「殿下!」
ヴァレドの叫び声が響いた。
ミレアの体を包んでいた光が、急激に膨れ上がる。沈んだ島の死者の記憶だけでなく、歴代にわたって消されてきた無数の記憶までもが、彼女の内側へなだれ込んでいた。光の奔流は次第に色を失い、白く濁った渦となって彼女の輪郭を呑み込んでいく。
ミレアの表情から、感情が消えていく。
「殿下、耐えてください」
ヴァレドが呼びかけても、ミレアの目は焦点を失い始めていた。膨大な記憶の中で、ミレア自身の名前だけが少しずつ読めなくなっていった。
地上では、サリナが割れたネムの殻を抱え上げていた。
「ミレアが……!」
嫌な予感がした。サリナは迷わず海へ向かって走り出した。
「サリナ、待て!」
ガランの制止も聞かず、サリナは荒れる波の中へ飛び込んだ。潜水の技術には自信があった。だが今回向かう先は、これまで潜ったどの海底とも違う。潮の心臓の奥、儀式の場そのものだった。水の冷たさが肌へ突き刺さり、体の芯まで凍りつくような感覚が走った。
水の中を進むにつれ、周囲に無数の光が漂っているのが見えた。ぼんやりと人の形をした、記憶の残滓のようなものだった。歴代の潮読み姫たちがここに眠っていたのだと、サリナは直感した。その光の群れは、まるで死してなお成仏できずに漂う魂のように、静かに、しかしどこか苦しげに揺らめいていた。
その中の一人に、サリナは見覚えのある面影を見つけた。
水の中にほどけた長い髪は、ミレアと同じ淡い銀青色だった。痩せ衰え、輪郭まで水に削られた石像のように曖昧になっていたが、細い顎と目元には、確かにミレアの面影が残っている。
「……セレイア様」
かつての王妃であり、先代の潮読み姫。ほとんどの記憶を失いながら、それでもまだ、かろうじて人の姿を保っていた。
セレイアは、うつろな目でサリナを見た。言葉らしい言葉は出てこない。ただ、途切れ途切れに、いくつかの音を紡ぐだけだった。
島の名前。誰かの名前。意味をなさない断片。
だが、ふと、その口から一つの名が漏れた。
「……ミレア」
その名を呼んだ瞬間だけ、セレイアの表情に、かすかな温もりが差した。ほとんど何も覚えていないはずの母が、それでも娘の名前だけは手放していなかった。その光景には、これまで見てきたどんな悲惨さよりも、深い痛みがあった。
サリナはその光景に胸を締めつけられながらも、先へ進んだ。
中心に近づくと、ミレアの姿があった。すでに、その目には何も映っていないように見えた。無数の記憶に呑まれ、自分が誰なのかさえ分からなくなっているようだった。全身を包む光は、もはや彼女自身の意志とは無関係に脈打ち、まるで巨大な何かに彼女という存在そのものが取り込まれていくかのようだった。
「ミレア!」
呼びかけても、反応はなかった。サリナはミレアの手を取り、強く握った。冷たい。石よりも、海水よりも、ずっと冷たい手だった。
「わたしです。サリナです」
ミレアの瞳が、わずかに揺れた。だが、それだけだった。名前を呼んでも届いている確信が持てない。
サリナは、これまでの旅を思い出しながら語りかけ続けた。
「あなたは、泳げないことを、ずっと隠していた」
ミレアの指先が、かすかに動いた。
「島民の名前を、何度も書き直していた。一人でも多く、正しく残そうとして」
水の中で、記憶の光がゆっくりと動く。まるでその言葉一つ一つが、彼女の輪郭を少しずつ縁取り直していくかのようだった。
「ソイの問いに、答えられなかった。あなたはそれを、ずっと気にしていた」
サリナは、ミレアの手首に結んだままだった、あの命綱の結び目に触れた。
「水が怖くて動けなくなったとき、わたしはあなたと自分の手首を命綱で結んだ。あなたは、それを忘れないでほしい」
ミレアの目に、少しずつ光が戻ってきた。肩書でも、儀式でもない。旅の中で、サリナが実際に見てきたミレア自身の姿が、少しずつ彼女の輪郭を取り戻させていく。
「……サリナ」
かすれた声だった。だが、確かにサリナの名前だった。
その一言を聞いた瞬間、サリナの胸に、これまで張りつめていた恐怖が一気に緩んでいくのを感じた。同時に、これまで堪えてきた涙が、水の中でとめどなく溢れ出した。
サリナは強くミレアの手を握り返した。
「戻りましょう」
二人は、潮の心臓に蓄えられていた膨大な記憶と名前を、旧防潮施設を通じて、王国中の海へ解き放った。
その瞬間、海全体が、光と声で満たされたようだった。まるで海そのものが、長年抑え込んでいた慟哭を、一気に吐き出したかのような轟きだった。
消されてきた名前が、一斉に人々のもとへ届いていく。王都の空にも、地の底からわき上がるような、無数の声が響き渡った。
潮の心臓の力は、あらゆる方向へ分散され、装置そのものが、耐えきれずに機能を停止していった。長年海の底で唸り続けていたその心臓は、最後に一度大きく脈打ち、そのまま沈黙した。
王都にも、高潮が押し寄せた。
港の防壁を越えた水は、倉庫街と低地の住宅地へ流れ込んだ。係留されていた船が綱を引きちぎり、石造りの倉庫へ激突する。市場の屋台も、家財も、長年そこで営まれてきた暮らしも、泥水の中へ押し流されていった。
だが、リトたちが事前に警告を伝えていたため、多くの住民は高台へ避難していた。歩けない者や病人は、近隣の者たちが戸板や荷車に乗せて運び出した。犠牲は、恐れられていた数よりはるかに少なく済んだ。
それでも、何も失われなかったわけではない。
翌朝、サリナとミレアは高台の岩場に横たわっていた。朝日が、疲れ果てた二人の体を穏やかに照らしていた。
ミレアがゆっくりと目を覚ます。
サリナはその顔を覗き込んだが、ミレアはすぐには誰かを認識した様子を見せなかった。ぼんやりとした目で、周囲を見回している。その瞳の奥に、これまでの記憶のどれほどが残っているのか、サリナには測る術がなかった。
サリナの胸に、不安がよぎった。
ミレアの視線が、ようやくサリナの方へ向いた。
それでも、すぐには名前を呼ばなかった。
ただ、その手だけが、確かめるようにサリナの指を握り返した。
夜が明けたあと、何千人もの住民が帰る家を失っていた。港はしばらく使えず、食料を積んだ船も入れない。王都がこれまで当然のように享受してきた安全は、その日を境に終わった。
辺境へ押し流されていた海が、初めて中央の島々にも届いたのだ。
潮の心臓は、完全に停止した。
トゥラ島も完全には守りきれなかった。堤防で持ちこたえていた低地の大半が、静かに海へ沈んでいく。だが、島民たちはすでに避難を終えていた。
高台では、島民たちが声もなく沈んでいく町を見つめていた。
マーヤの家も、島民たちが集まっていた広場も、ソイが砂の上に海図を描いた浜も、もう水の下にあった。屋根だけを残していた家が一軒、波に傾き、やがて音もなく姿を消した。
「助かったんだよね」
ソイが、誰に尋ねるともなく言った。
マーヤはすぐには答えなかった。少年の肩を抱き寄せ、それから沈んでいく島を見たまま口を開いた。
「命はね」
それ以上の言葉は続かなかった。
生き残った者たちは、明日から別の場所で暮らさなければならない。畑も、船着き場も、先祖の墓も、子どものころから知っていた道もない場所で。
名前は残った。
けれど、名前を呼べば帰ってこられる故郷は、もう残っていなかった。




