最終話 王女は国を数え直す
潮の心臓が沈黙してから、数週間が過ぎていた。
サリナとミレアはトゥラ島に残る漁師小屋の一つで、傷の癒えるのを待っていた。板壁の隙間から差し込む光が、横たわるミレアの頬に細い筋を描いている。海はまだ本調子ではなく、遠くから届く波音にも、以前とは違う荒さが混じっていた。
ミレアはサリナの名前を忘れてはいなかった。
だが、残った記憶には無数の穴があった。
朝、目を覚ますたびに、ここがトゥラ島だと説明しなければならない日がある。王宮の自室の場所も、自分が幼いころ好んでいた食べ物も思い出せない。神官から教え込まれてきた儀式の手順だけが妙に鮮明に残り、その一方で、自分が何歳のときに初めて海を怖いと思ったのかは失われていた。
もっとも大きな空白は、母についての記憶だった。
「セレイア」
ミレアはその名前を知っている。
自分の母であり、先代の潮読み姫だったことも理解している。けれど、その顔を思い出すことはできなかった。声も、手の温かさも、幼い自分がどのように呼びかけていたのかも。
「母は、どんな人だった?」
そう尋ねられるたび、サリナは答えに詰まった。
サリナが見たセレイアは、海の底で娘の名前だけを呼び続けていた姿だけだったからだ。ミレアが失った母の記憶を、代わりに返してやることは、誰にもできなかった。
ある夕暮れ、サリナとミレアの見舞いに来ていたリトやマーヤと話していると、扉を叩く音がした。
入ってきたのはガランだった。手には、王都から届いたばかりの書状を持っている。いつもの無表情の下に、隠しきれない疲労が滲んでいた。
「サリナ」
低い声だった。
「王都の様子を、知らせに来た」
サリナは体を起こそうとしたが、ガランは手で制した。
「そのままでいい。長い話じゃない」
ガランは書状を広げるでもなく、ただその重みを確かめるように手の中で握った。かつて石工院で、石板の重さを量っていたときと同じ仕草だった。
「陛下は、お前たちの行いを反逆と決められた」
サリナの喉が、わずかに動いた。
「……知ってました。潮の心臓を止めたんです。罪に問われるのは、当然だと思ってます」
「玉座の間では、私情を挟まぬ厳しい裁きが下されたそうだ」
ガランはそう言うと、初めて視線を落とした。
「だが、それだけでは終わらなかった」
その一言に、いつもより長い間があった。
傍らで身を起こしていたリトが、待ちきれないように口を挟んだ。彼もまた、島に残って復旧作業を手伝っていた一人だった。
「潮の心臓の真実が、もう国中に広まってるんです。名簿から消された人がいたんじゃないかって、あちこちの島で騒ぎになってて」
「本当に……?」
ミレアの声だった。目を閉じたまま、かすれた声で尋ねる。
「ああ」
ガランが頷いた。
「静かな潮の流れみたいに、じわじわとな。誰にも止められねえ」
リトが続けた。
「だから陛下も、簡単には手を出せないはずです。二人を人知れず始末するなんてこと、今の国じゃもう誰も許しちゃくれない」
ガランは書状を開き、低い声で読み始めた。
「王都の港は、当分元には戻らない。低地の住民の一部は、中央島の高台と南の島々へ移される」
マーヤが腕を組んだ。
「これまで、あたしたちに移れと言ってきた王都の人間が、今度は自分たちで移るのかい」
「ああ」
ガランは淡々と答えた。
「旧防潮施設は、王国中で四十七基見つかっている。そのすべてを修復するには、何年もかかる。石材も人手も足りない。王都と中央の島々には、これまで辺境から集めていた税に代えて、工事の費用と人員を多く負担させることになった」
「反対する人もいるでしょうね」
ミレアが言った。
「当然だ。自分たちは何も知らなかった、王家と神官だけの責任だと言う者もいる。なぜ中央が辺境のために負担しなければならないのかと騒ぐ者もいる」
「神官長は、どうなりますか」
サリナが尋ねると、ガランは書状の最後へ目を落とした。
「ヴァレドは王都へ戻った。潮の心臓の記録を、すべて評議会へ提出したそうだ。歴代の王と神官が、どの島を沈めると決めたのか。それによって誰が救われ、誰の名が削られたのかも」
「自分も裁かれると分かっていて?」
ミレアが驚いたように顔を上げた。
「ああ。知らなかったことにはしない、と書いてある」
ガランは少し間を置いた。
「俺も王都へ戻れば、同じことを話す。お前の母の名を削ったことも、そのほかに削った名前も」
サリナは、すぐには答えられなかった。
許したわけではない。名を戻したからといって、削られた年月まで戻るわけでもない。
「話してください」
やがてサリナは言った。
「正しかったことにせず、仕方がなかったことにもせず、全部」
ガランは一度だけ頷き、報告を続けた。
「王家が沈める島を選ぶ権限も、廃止される。潮読み姫という役目もだ」
その言葉を聞き、ミレアは静かに息を吐いた。
「王女の地位までは奪われないそうだ。だが、その名を使って、誰かの記憶や命を引き受けさせる権利はもうない」
ガランは書状へ目を落とした。
「潮の心臓も、もうない。これから海が荒れれば、どの島も自分たちの堤防だけでなく、隣の島の堤防まで支えなければならない」
ミレアはしばらく黙っていた。
「それでいい」
「簡単にはいかないぞ」
「簡単でなくていいんです」
ミレアは一度、言葉を選ぶように間を置いた。
「これまで簡単だったのは、苦しむ場所を一つに決めて、ほかの人たちが見なくて済んでいたからです」
ガランは窓の外へ目をやった。夕焼けに染まった海が、まだ完全には落ち着きを取り戻していない波を、ゆっくりと打ち寄せていた。
「これからどうなるかは、俺にも分からん。だが」
もう一度、サリナの方を見た。
「お前たちがしたことを、なかったことにはさせない。それだけは、俺が約束する」
サリナは何も返せなかった。ただ、しばらく俯いたあと、小さく頷いた。
ミレアは王位継承権を返上し、各島に残る旧防潮施設を調査して、順に復旧させていく道を選んだ。
誰もが望むような栄誉ではない。地味で、時間のかかる仕事だった。それでもミレアは、その仕事を誰かに任せようとはしなかった。
「王女としてではなく、この仕事をする一人として」
ミレアはそう言って、王宮を出た。振り返ることなく歩み去るその後ろ姿には、これまで纏っていた王族としての重々しい衣が、静かに脱ぎ捨てられていくような軽さがあった。
記憶の一部は、確かに失われていた。母との幼いころの思い出や、王宮で学んだことの一部を、ミレアは思い出せなくなっていた。ふとした瞬間に、何かが欠けている感覚に襲われることもあった。それは、暗い水底に手を伸ばしても、そこに何もないと分かる時の、あの心もとない感覚に似ていた。
それでも、サリナの名前だけは覚えていた。
割れた殻を失ったネムの背には、数週間をかけて、薄く小さな新しい殻が育ち始めていた。
ネムはその新しい殻を背負い、陽の当たる石の上で眠ることが増えた。
半ば海に沈んだ旧王宮の広場で、サリナとミレアは新しい石板を作ることにした。
崩れた石柱の隙間から差し込む光が、広場全体をやわらかく照らしていた。かつて権力の象徴だったこの場所は、今では静かに朽ちながら、新しい何かが生まれるのを待っているように見えた。
サリナは鑿を手に取り、一つずつ名前を刻んでいく。
公式記録から消されてきた島民の名前。戸籍を持たなかった船上民の名前。異国から逃れてきた者たちの名前。そして、歴代の潮読み姫たちの名前。
それぞれの名の下に、生きた証を短く添えていく。どんな声で笑い、どんな海を渡り、誰を愛したか――サリナが旅の中で聞き取ってきた、断片的な記憶のすべてを。鑿を振るう手つきには、もう最初の一打を恐れていたころのような迷いはなかった。それでも、一つの名前を刻むたびに、その人の人生の重みが指先から伝わってくる感覚だけは、変わらず残り続けていた。
石板の端には、まだ空白が残されていた。
ミレアはしばらくその空白を見つめていたが、やがて自分から鑿を手に取った。危なげな手つきで、サリナに角度を直してもらいながら、一文字ずつ自分の名前を刻んでいく。潮風が吹くたびに、石の欠片が小さく舞い、陽の光にきらめきながら地面へ落ちていった。
「ミレア」
それだけの、短い名前だった。だが、その名前には王女という肩書は添えられていなかった。
王女としてではなく。この国で生き残り、これから責任を負う一人の人間として。
最後の一画を刻み終えたとき、ミレアは小さく息を吐いた。石の表面に残った、まだ新しい傷跡を、指先でそっとなぞる。その仕草には、これまでの重い運命を静かに受け入れた者だけが持つ、穏やかな強さがあった。
「これで、いい?」
サリナはその石板を見つめ、頷いた。
「はい」
広場には、他にも人々の姿があった。
マーヤは、新しい土地に移り住んだトゥラ島の人々をまとめ、新たな集落作りに奔走していた。船を失った者たちのために港を整え、戸籍を持たなかった者たちにも正式な住まいを与えるよう、粘り強く王国と交渉を続けている。日に焼けたその顔には、以前と変わらぬ迷いのなさが宿っていた。
ソイは、正式な海図作りの仕事を任されることになった。これまで誰にも認められなかった彼の技術が、初めて公の仕事として認められた瞬間だった。相変わらず飄々とした様子で、新しい海図に、消えた島々の位置を丁寧に書き加えていた。その筆先は、かつて存在を認められなかった少年が、今こうして世界の形を記していく、確かな逆転の証だった。
リトは、王都の防潮工事に参加していた。弟の暮らす低地を、二度と危険に晒さないためだった。以前のように王女に仕える栄誉を求めることはなくなっていたが、その代わり、自分の手で守れるものを見つけたようだった。汗を拭うその顔には、これまでにない充実の色が浮かんでいた。
ガランは、石工院へ戻っていた。
これまで自分が削ってきた名前を、一つずつ刻み直すために。それは償いと呼べるほど簡単な仕事ではなかったが、ガランは黙々と鑿を振るい続けていた。皺の刻まれたその横顔には、これまでの人生でついに向き合うことを許された、静かな痛みが浮かんでいた。
「石は嘘をつかない」
かつての口癖を、ガランはもう軽々しくは口にしなくなっていた。その言葉の重さを、誰よりも自分自身が知っていたからだ。
石板が完成した日、サリナとミレアは、次に復旧させる防潮施設のある島へ向けて、船に乗り込んだ。
港には、これまで関わってきた人々が見送りに来ていた。
マーヤは短く頷き、ソイは大きく手を振り、リトは照れくさそうに笑った。ガランは何も言わず、ただ頭を下げた。
その一つ一つの仕草に、これまで共に歩んできた道のりの重みが確かに宿っていた。
船が沖へ出ると、ミレアは海面へ目を向け、遠くに見える島影を数え始めた。
「一つ、二つ……」
その姿は、かつて数字だけを追っていた潮読み姫の頃とは、どこか違って見えた。あの頃の数字には、いつも誰かの死の予兆が張りついていた。だが今、ミレアが数えているものには、これから守っていくべき未来の輪郭が滲んでいた。
サリナは、隣に立って尋ねた。
「いくつある?」
ミレアは指を止め、首を横に振った。
「まだ、分からない」
振り返ったミレアの顔には、迷いのない微笑みがあった。潮風に長い髪がなびき、その表情はどこまでも穏やかで、それでいて確かな芯を持っていた。
「だから、これから数えに行くの」
その言葉には、これまでのように犠牲や覚悟の重さだけが込められているのではなかった。数えきれないものを、それでも一つずつ数えていく――そういう、続いていく意志があった。
国は、島の数でも、領土の広さでもない。
誰の名を残し、誰の名を消さないと決めるかによって、初めて形を持つ。
サリナは、その言葉を胸の中でもう一度繰り返した。母が守ろうとしたものも、きっとこれだったのだろうと今なら分かる気がした。かつて海の底へ沈んでいった母の願いが、こうして今、娘の手を通して確かに形を持ち始めている。
ネムが舳先に乗り、新しい殻を潮風にさらしている。その小さな殻の中には、もう誰かを苦しめる声は響いていない。
船は名前を失った島々へ向けて、静かに進んでいった。
二人を乗せた船の先に、まだ名簿にない島影がいくつも霞んで見えていた。
サリナは、新しい石板を膝の上で押さえた。
(了)




