第七話 石に嘘を刻んだ者
ガランは兵たちに手を上げて合図し、それ以上近づかせなかった。
朝の光が水面に反射し、無数の光の粒となって周囲を漂っていた。だがその輝きすら、今のサリナには冷たく空々しいものに感じられた。サリナは濡れた記録を懐に抱えたまま、師匠の顔を見上げた。長年見てきたはずのその顔が、今は初めて会う人間のように遠く感じられた。
「親方が、どうして」
「王命だ」
ガランは短く答えた。表情を変えず、感情を押し殺しているようにも見えた。だがその声の底には、隠しきれない疲労の色がにじんでいた。
「お前たちを連れ戻せと言われた」
ミレアが一歩前に出ようとするのを、サリナは腕で制した。ここで王女が前面に立てば、事態はより複雑になる。ガランの目は、サリナだけを見ていた。
「見せてもらったぞ、その記録」
ガランは低く言った。
「イナの字だな」
「知ってたんですか」
「知ってた」
ガランは、はっきりと認めた。
「お前の母親の名前を、慰霊石板から削ったのは、俺だ」
波の音が、急に遠くなった気がした。サリナは何も言えず、ただガランを見つめていた。これまで信頼してきた師匠の輪郭が、まるで海水に溶けていく砂の像のように、少しずつ崩れていくような錯覚があった。
「王命だった。イナは反逆者として記録された。反逆者の名は、慰霊石板に刻んではならない。それが決まりだ」
「決まりだからって……!」
「聞け」
ガランの声が、初めて揺れた。長年岩のように動かなかったその声に、亀裂が入った瞬間だった。
「イナの名を消したとき、俺は同時に、幼いお前をどうするか決めなければならなかった。反逆者の娘として処罰されるか、それとも、名前のない子どもとして、石工院に引き取られるか」
サリナは息を止めた。
「お前を守るために、母親の存在ごと消した。それが、正しかったとは言わない。だが、他にどうすればよかったのか、俺には今も分からない」
ガランは言い訳をしなかった。ただ淡々と、自分がしたことを述べた。それが、かえってサリナの胸を締めつけた。憎むべき相手が、はっきりとした悪意を持って自分を陥れたのであれば、まだ怒りをぶつけやすかったはずだ。だがガランの言葉には、ただ選びようのなかった者の、乾いた後悔だけがあった。
「わたしを守ったという理由で、母の存在まで消したんですか」
「そうだ」
「相談してくれれば……」
「相談して、お前がどうにかできたか。幼いお前に、母親が反逆者だと、その名すら残せないと、どうやって伝えろと言うんだ」
サリナは拳を握りしめた。怒りをどこへ向ければいいのか、自分でも分からなかった。ガランを恨む気持ちと、それでも自分を育ててくれた恩とが、同時に胸の中でせめぎ合っていた。その二つの感情は、決して溶け合うことなく、ただ胸の内側でぶつかり続けていた。
ガランは懐から、古びた紙束と丸めた設計図を取り出し、サリナへ差し出した。
「削除する前の名簿だ。ずっと手元に置いていた。それから、これは旧防潮施設の設計図。イナが最後まで探していたものだ」
「なぜ、今になって渡すんですか」
「兵を率いて来いと命じられた。だが、お前たちを連れ戻すことと、これを渡さないことは、別の話だ」
ガランはそう言うと、初めて目を伏せた。深く刻まれた皺の中に、長年抱え続けてきた重みが滲んでいるようだった。
「俺は、これまでずっと、命令に従うことで、間違いに加担してきた。今更それを償えるとは思わない。だが、次の世代が別の道を選ぶことまで、俺が邪魔をする理由はない」
サリナは震える手で、名簿と設計図を受け取った。紙の重みが、これまでの七年間の重みそのもののように、掌にずしりとのしかかってきた。
そのとき、兵の後ろから、もう一人の人物が姿を現した。
リトだった。息を切らし、王都から急いでやってきたらしい。額には汗が滲み、着物の裾は泥に汚れていた。
「サリナ!」
リトはサリナの無事を確認すると、安堵の表情を浮かべた。だがすぐに、その表情は切迫したものに変わった。
「頼む、潮の心臓を止めないでくれ」
「リト……」
「王都の低地に、おれの弟がいる。病気で、動くことすらままならない。急な高潮が来たら、逃げられない」
リトの声には、これまで見たことのない必死さがあった。彼にとって潮の心臓は遠い制度の話ではなく、弟の命そのものだった。その目には、初めて見る種類の恐怖が浮かんでいた。
「お前が正しいことをしようとしてるのは分かる。でも、正しさのために、おれの弟が死んでもいいのか」
サリナは答えられなかった。王都の人々を単なる制度の側の人間として見ていた自分に気づかされた。リトもまた、守りたい暮らしを持つ一人の人間だった。これまで自分が背負ってきた憎しみの中に、リトのような存在の居場所はなかったのだと、今更ながらに思い知らされる。
ミレアがゆっくりと口を開いた。
「潮の心臓を、突然破壊するつもりはない」
全員の視線がミレアへ集まった。潮風にその声はかき消されそうになりながらも、はっきりと響いた。
「儀式によって、一時的に海流を保ちながら、同時に旧防潮施設へ力を分散させる。そうすれば、王都への急激な被害は避けられる」
「そのためには?」
サリナが尋ねる。
「わたしが、潮の心臓へ接続しなければならない」
ミレアの声は穏やかだったが、迷いはなかった。
「記憶を失う危険は、残る。でも、何もせずに拒めば、王都の人たちが即座に被害を受ける。この方法なら、時間を稼ぎながら、旧施設を動かせる」
サリナは、ミレアの決意の重さを理解した。それでも止めることが、正しいとは思えなかった。かといって、黙って送り出すこともできなかった。胸の中で、これまでの怒りと、今この瞬間の不安とが、静かにせめぎ合っていた。
「分かりました」
サリナはようやく、そう口にした。
「止めません。でも」
ミレアの目を、まっすぐに見つめる。
「必ず、あなたの名前を連れ戻します」
ミレアは一瞬、驚いたように目を見開き、それからゆっくりと頷いた。その瞳の奥に、これまでにない安堵の色が浮かんだ気がした。
兵たちに囲まれたまま、その場は奇妙な静けさに包まれた。誰も、これ以上何かを強制しようとはしなかった。ガランは兵を退かせ、リトも荒い息を整えながら、それ以上何も言わなかった。潮騒だけが、その場に残された重い沈黙を埋めていた。
その夜、島に戻ってから、ミレアはサリナを浜辺へ呼び出した。
波の音だけが響く中、ミレアはしばらく黙って海を見つめていた。夜の海は昼間よりもさらに黒く、まるで底知れぬ深淵がそのまま横たわっているかのようだった。
「サリナ」
「はい」
「儀式が始まったら、わたしは色々なものを忘れていくと思う。名前も、記憶も、少しずつ」
サリナは何も言わず、ただ耳を傾けた。潮風がミレアの声を運び、そのまま夜の闇へ溶けていく。
「だから、今のうちに言っておきたい」
ミレアは振り返り、まっすぐにサリナを見た。潮風に長い髪がなびいている。月明かりに照らされたその横顔は、これまでのどの瞬間よりも儚く、それでいて強い意志を宿しているように見えた。
「サリナ。たとえ全部忘れても、あなたの名前だけは返して」
その声は、王女としてではなく、ただ一人の少女として発せられた言葉だった。サリナは胸の奥が締めつけられるのを感じながら、ゆっくりと頷いた。
「必ず」
波が、二人の足もとまで寄せては引いていった。




