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海の底で、王女は国を数えている  作者: 明石竜


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第六話 沈んだ旧王都

 サリナは〈潮鍵〉を両手で持ったまま、しばらく動けずにいた。

 昨日の高波の後、片付けの手を止める暇もないほど島は混乱していたが、この石柱だけは、明らかに他の瓦礫とは違っていた。

朝の光が石柱の表面を斜めに照らし、昨日は見えなかった彫刻の細部を浮かび上がらせていた。石工として石を見てきたサリナには、それが単なる装飾ではなく、何らかの仕組みの一部だと分かった。

「ガラン親方なら、これが何か知っているかもしれない」

 そう思いながらも、サリナはまず海底神殿で見た地図の断片を思い出していた。あの地図には、旧王都と、島ごとに点在する小さな施設の印が描かれていた。手の中の石柱には、その印と同じ紋様が刻まれている。指先でその溝をなぞるたびに、まるで何かが目を覚まそうとしているような、かすかな予感が背筋を這い上がってきた。

 サリナはミレアのもとへ向かった。前夜のやり取りのあと、気まずさは残っていたが、それを言っている場合ではなかった。

「これを見てください」

 石柱を差し出すと、ミレアはすぐに表面の紋様へ目を留めた。

「地図にあった印と、同じ」

「はい。旧王都の防潮施設に使われていたものだと思います」

 ミレアは石柱を受け取り、じっと見つめた。

「旧王国では、各島がそれぞれ自分たちの防潮施設を持っていた。被害を、島ごとに分散させていたということ」

「でも今の王国は、それを廃止して、潮の心臓に一本化した」

 サリナが続けると、ミレアは小さく頷いた。

「中央集権化のため。一つの大きな装置で中央だけを守る方が、管理も楽だったのかもしれない」

「もし、この小型施設を復旧できれば」

 サリナは言葉を選びながら続けた。

「潮の心臓を止められる可能性がある、ということですよね」

「たぶん。でも」

 ミレアは石柱を胸に抱いたまま、視線を落とした。

「完全な安全は得られない。中央の島々も、これまで辺境に押しつけてきた高潮の被害を、自分たちで負うことになる」

「それでも」

「うん。それでも、一つの島だけが沈み続けるよりは」

 ミレアはそう言うと、顔を上げてサリナを見た。昨夜の怒りはもう見えず、ただ確かめるような静けさがあった。潮風に乱れた髪の下、その瞳には、これまでとは違う覚悟に近い光が宿っていた。

「儀式を拒むためじゃなく、本当に別の道があるのか、確かめに行きたい」

 サリナは頷いた。それ以上、言葉は要らなかった。

 二人は、ネムを連れて潜水鐘での探索を試みることにした。海底に沈んだ旧王都まで、潮の流れが穏やかになる短い時間を使う必要があった。

 ソイが同行を申し出た。

「ぼくが潮の道を知ってる。旧王都のあたりは、流れが複雑だから」


 ガランにも一度相談したが、彼は険しい顔で押し黙るばかりで、はっきりとした返事をしなかった。

 潜水鐘は、島に残されていた古い漁具を改造したものだった。完全な装備とは言えなかったが、短時間潜るにはじゅうぶんだった。鉄の内壁には長年の錆と潮の匂いが染みつき、内部にこもる空気はどこか重く湿っていた。

 海面下へ降りていくと、視界の先に、想像を超える光景が広がっていた。

 かつての街路がそのまま海底に横たわっている。崩れかけた家々の屋根、傾いた石畳、苔むした宮殿の柱。魚たちが、かつて人々が歩いていたはずの通りを泳ぎ回っていた。薄暗い水の中、差し込む光の筋が、朽ちた街並みを幻のように照らし出す。まるで時間そのものがこの場所だけ止まってしまい、誰にも見られることのないまま、ひっそりと朽ち続けてきたかのようだった。

 サリナは潜水鐘の小窓越しにその光景を見つめながら、言いようのない寒気を覚えた。かつてここで人々が暮らし、笑い、争い、そして最後には海に呑まれていった。その痕跡だけが、こうして誰にも語られぬまま、水底に沈み続けている。


 ネムが迷いなく進んでいく先に、石工の工房らしき建物があった。中に入ると、崩れた棚の下に、古い記録の束が沈んでいるのが見えた。 

 サリナは潜水鐘に備えられた鉤を操り、水を吸った紙束を慎重に引き寄せた。大半の文字は滲んでいたが、石材の寸法や施設の配置を記した図面の間に、小さな海獣の絵が何度も描かれている。

 丸い体と、背中を覆う大きな貝殻。

「ネムと同じ……」

 ネムはサリナの足もとを離れ、紙に描かれた海獣へ鼻先を寄せた。背中の殻が、かすかに震えている。

 ミレアが、辛うじて読める一節を指で追った。

「名を失う者があれば、海はその響きを〈記憶貝〉へ預ける。石より削られ、人の口より忘れられても、潮の中から名が失われぬように……」

 サリナはネムを見下ろした。

「この子は、消された名前を拾っていたの?」

「たぶん。ずっと、誰にも知られないまま」

 ミレアは記録とネムを見比べた。

 記録には、島ごとに何匹もの記憶貝がいたことが記されていた。だが潮の心臓が作られてから、その数は急速に減り、やがて記録からも姿を消している。

 ネムの殻の奥から、いくつもの声が重なるような低い音が漏れた。

 サリナは膝をつき、その小さな背へそっと手を置いた。


 古い記録の束をさらに調べていくと、見覚えのある筆跡が見つかった。

 母、イナのものだった。

 サリナは記録を両手で持ち直した。そこに記されていたのは、単なる告発ではない。

 各島の水位。潮の流れの変化。そして、旧防潮施設を再起動するための具体的な手順。

 母は、潮の心臓をただ破壊しようとしていたのではなかった。旧防潮施設を再び動かし、島々が等しく海の負担を引き受けるための計画を、長い時間をかけて組み立てていたのだ。

 記録の最後の一枚に、母の字で短い言葉が残されていた。

 娘には、わたしの正しさではなく、自分の答えを選んでほしい。

 サリナは、その一文から目を離せなかった。

 母は、自分と同じ道を歩けとは書かなかった。正しささえ、娘へ引き継がせようとはしなかった。

 ただ、選ぶことだけを託していた。

 ミレアが、そっとサリナの肩に触れた。

「サリナ」

 サリナは頷き、記録を懐へしまった。

 今は泣いている場合ではない。この記録を、海の上まで持ち帰らなければならなかった。


 浮上しようとしたとき、頭上の水面に、いくつもの影が差した。

 人影だった。それも、多数の。

 水面に映るその影の数は、あまりにも多く、統率された動きをしていた。まるで、あらかじめこの場所を待ち構えていたかのように。

 潜水鐘が強引に引き上げられ、三人は否応なく水面へ連れ戻された。待っていたのは、武装した王国の兵士たちだった。

「動くな」 

 鋭い声が響く。逃げ場はなかった。サリナたちは瞬く間に取り囲まれた。剣の切っ先が朝の光を反射し、鈍く冷たい輝きを放っている。

 兵を率いていた人物が、ゆっくりと前へ出てきた。

 サリナはその顔を見て、言葉を失った。

 師匠のガランだった。


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