第五話 潮読み姫の代価
ヴァレドはミレアを、島の奥にある小さな祠へと案内した。
祠へ続く小道には苔むした石段が続き、両脇には枯れかけた供花がいくつも並んでいた。長年、誰かがここへ祈りを捧げに通ってきたことが分かる。
石造りの狭い部屋には、古びた記録の巻物が並べられていた。ろうそくの明かりだけが唯一の光源で、揺れる炎に照らされた巻物の影が、壁の上で不気味に伸び縮みしていた。ヴァレドはその一つを広げ、〈潮読み姫〉の儀式について、これまで伏せられてきた詳細を語り始めた。
「沈んだ島の死者の名前と記憶を、潮読み姫が一身に受け止めます。それを潮の心臓へ渡すことで、海流は安定する。しかし、その代償として――潮読み姫自身の記憶と名前は、少しずつ失われていきます」
「王国では、歴代の潮読み姫は儀式の後、亡くなったと聞かされてきました」
ミレアの声は落ち着いていたが、指先はかすかに震えていた。膝の上で組んだ両手が、白くなるほど強く握りしめられている。
「その通りに伝えられています。しかし」
ヴァレドは一度言葉を切った。狭い部屋の空気が、それだけで重みを増したように感じられる。
「実際には、亡くなっていない者もいます」
ミレアの顔から血の気が引いた。
「あなたの母上、セレイア様も」
「……母は」
「王都地下の神殿で、今も生きておられます。潮の心臓を安定させる、器として」
その言葉は、まるで冷たい水のようにミレアの体の中へ染み渡っていった。器という言葉の響きが、これまで聞いてきたどんな慰めの言葉よりも残酷に響く。
その場に、長い沈黙が続いた。サリナは少し離れた場所からその様子を見ていたが、ミレアの背中が小刻みに震えているのが分かった。ろうそくの炎が揺れるたびに、その震えが影となって壁に映し出される。
「会わせてください」
「今は、その時ではありません。あなたが儀式を終えた後であれば」
「今、会わせてください」
ミレアの声が、初めて感情のままに高くなった。だがヴァレドはゆっくりと、しかし揺るがぬ調子で首を横に振った。
「殿下がその姿を見れば、覚悟が鈍ります。それは、これから儀式に臨むあなたにとって、残酷なことです」
ミレアは唇を噛み、それ以上何も言わなかった。口の中に血の味が広がるほど、強く歯を立てていた。
その夜、宿舎に戻ったミレアは、しばらく無言のまま帳面を見つめていた。集めてきた非公式の名簿――生きた証を聞き取ってきた名前の連なりが、ろうそくの明かりの下で揺れている。その一つ一つの名前が、まるで自分を責めるように、暗がりの中でこちらを見つめ返しているようだった。
「わたし、決めた」
やがてミレアがそう言った。
「儀式を受ける」
サリナは息を止めた。
「自分一人の記憶で、大勢が救われるなら」
「ミレア」
「わたしが忘れるだけで済むなら、それでいい」
ミレアの声は小さかった。自分が失われることを、もう決まったこととして話していた。
「それでいいわけありません」
「サリナ」
「あなたが忘れれば、みんなはまた、自分たちは正しかったと思える」
サリナは、帳面の上へ手を置いた。
「次の島も、次の王女も、同じように沈められる。あなたが受け入れてしまえば、この仕組みは、これからも続いていく」
「じゃあ、どうすればいいの」
ミレアも声を荒げた。初めて見る、余裕のない表情だった。ろうそくの炎に照らされたその顔は、王女の優雅さをかなぐり捨てた、一人の追い詰められた少女のものだった。
「儀式を拒めば、潮の心臓は止まる。今生きている、王都や中央の島々に住む何十万もの人が、一斉に高潮に呑まれる。わたしに、その人たちを見捨てろと言うの」
「そうは言っていません」
「じゃあ何を言っているの。わたし一人が忘れることと、何十万人が死ぬことと、どちらが軽いというの」
サリナは答えに詰まった。数の重さで比べれば、ミレアの言うことは正しい。だが、その正しさこそが、これまで何度も繰り返されてきた犠牲を、正当化してきたのではないか。頭の中で、その二つの理屈がぐるぐると渦を巻き、どちらにも行き着けないまま、ただ苦しさだけが募っていく。
「それを、あなたに選ばせること自体が、間違っているんです」
サリナは絞り出すように言った。
「誰か一人に、忘れることを引き受けさせて、残りの人間は何も背負わずに生き延びる。それを繰り返してきたのが、この国のやり方じゃないですか」
「他に方法があるなら、教えて」
ミレアの目に涙が浮かんでいた。怒りと痛みが入り混じった目だった。
「今この瞬間にも、島の人たちは避難を待っている。堤防はいつ崩れるか分からない。悠長に第三の道とやらを探している時間なんて、どこにあるの」
サリナは何も言い返せなかった。ミレアの言うことは机上の理屈ではなく、目の前の現実だった。
「王女殿下は」
怒りのあまり、サリナは口をついてその呼び方を選んでいた。
「結局、王女として死ぬことしか考えられないんですね」
ミレアの唇が、わずかに開いた。だが何も言葉は出なかった。
それ以上、どちらも言葉を続けられなかった。サリナは踵を返し、宿舎を出た。
外の空気は湿り、風が強くなっていた。海鳴りは、先ほどより近く、低くなっていた。
その夜遅く、島に最初の高波が押し寄せた。
突然の轟音とともに、堤防の一部が崩れる音が響いた。まるで巨大な獣が地面を噛み砕くような音だった。サリナが駆けつけたときには、すでに水が低地の家々へ流れ込み始めていた。
「避難だ! 早く!」
マーヤの声が飛び交う。島民たちが子どもや年寄りを背負い、高台へと走っていく。悲鳴と怒号が入り混じり、松明の炎が闇の中で乱れ揺れていた。サリナは石工の技術を使い、崩れかけた堤防の隙間へ、手近な石材を次々と詰めていった。腕が悲鳴を上げても、手を止めなかった。指先が石の角で切れ、血が滲むのも構わなかった。
サリナがある石を抱え上げたとき、低地の家々の間で、かすかな音がした。
石と石が、地の底で擦れ合うような音だった。
振り返ると、昼間に見た古い台座の一つが、流れ込んだ海水の中でわずかに震えていた。側面に刻まれた波の紋様が、ほんの一瞬だけ青白く浮かび上がる。
「今、光った?」
サリナが声を上げると、近くにいたソイも頷いた。
だが次の波が押し寄せると、光はすぐに消えた。台座の中央にある細長い窪みだけが、何かを待つように黒く開いている。
サリナはそこへ駆け寄ろうとしたが、崩れかけた家から助けを求める声が上がった。
「あとで確かめる。今は人を!」
サリナは台座に背を向けた。けれど、あの石が死んでいるのではなく、動くために足りない何かを待っているのだという確信だけが残った。
同じ頃、ミレアも自ら水に浸かりながら、逃げ遅れた家族を抱え上げていた。泳ぐことができない体で、それでも足の着く深さの中を懸命に動き回っている。水位が上がるたびに、その顔にわずかな恐怖がよぎるのが遠目にも分かったが、それでもミレアは足を止めなかった。
「殿下がそんなことを!」
供の者が止めようとしたが、ミレアは聞かなかった。
「今は、殿下でも潮読み姫でもない。手が足りないなら、動く」
濡れた髪を額に貼りつかせたまま、ミレアは老女を背負って高台へ運んだ。その足取りは危なげで、何度も波にさらわれそうになりながらも、決して止まることはなかった。
夜明けまでに、堤防の決壊は何とか食い止められた。だが低地の家の半分近くが浸水し、島民たちは疲れ果てた顔で、それでも互いの無事を確かめ合っていた。朝の光が、濡れそぼった島の姿を容赦なく照らし出していく。
助けられた島民の中には、ミレアの顔を知る者もいた。
「あんたが、あたしらを沈める儀式をする王女様かい」
老女の一人が、疲れた声でそう言った。ミレアは何も言い返さず、ただ小さく頭を下げた。
「助けてもらったのはありがたいけど……あんたが生きて、この島が沈むのも、どっちも本当のことなんだね」
感謝と、拭いきれない怒りが、同じ声の中に同居していた。ミレアはその両方を、黙って受け止めるしかなかった。うつむいたその横顔には、これまでの覚悟とはまた違う、新しい重さが刻まれているようだった。
朝日が昇り始めたころ、サリナは崩れた堤防の残骸を片付けながら、波打ち際に打ち上げられた見慣れない石柱を見つけた。
古びた石柱には、精緻な彫刻が施されていた。海底神殿の地図で見た印と、よく似た紋様だった。波に洗われ続けてなお、その彫刻の線ははっきりと残っている。まるで長い眠りから、今初めて目を覚ましたかのようだった。
拾い上げて確かめると、石柱の太さは、夜の高波の中で光った古い台座の窪みとほぼ同じだった。
海底神殿の地図にも、各施設のそばに同じ形が描かれていた。
「これを、差し込むの……?」
サリナは石柱を握り直した。
それが施設を動かすための鍵なのだと、まだ確証はなかった。




