第四話 母が消された理由
しばらくして、サリナは岩場に腰を下ろした。
ミレアもソイも何も尋ねなかった。サリナが話せるようになるまで、ただそばに座っていた。
やがてサリナは、膝の上の石片へ目を落とした。
「わたしの母は、セルカ島の記録係でした」
声に出すと、七年前には分からなかったことが、少しずつ形を持ち始めた。
「島民の出生や死亡、婚姻を記録する仕事です。母は……たぶん、島々の水位の変化を、ずっと調べていたんだと思います」
サリナは石片に刻まれた文字を指でなぞった。指先が凹凸をたどるたび、かつてここへ文字を刻んだ母の手を思った。
「セルカ島が沈む前、母は何かに気づいて、王都へ訴えようとしていました。詳しいことは分かりません。わたしはまだ子どもで、母がどこへ行くのかも聞かされませんでした」
「それで」
ミレアが先を促す。サリナは一度、深く息を吸った。潮の匂いが肺の奥まで満ちる。
「母は反逆者として捕らえられ、移送中の水害で死んだと聞かされました。でも、慰霊石板には名前がなかった。ずっと記録漏れだと思っていました」
「でも、違った」
「はい。今なら分かります。母は消されたんです。この石片が、そのまま神殿に残っていたということは……母は最後まで、真実を確かめようとしていたんだと思います」
声に出しても、悲しみは軽くならなかった。その底に、これまで名前をつけられなかった怒りが残った。
ミレアは何も言わず、ただサリナの手にある石片を見つめていた。その沈黙の中に、何か言い訳のようなものを探しているのではないかと、サリナは疑ってしまう自分に気づいた。
「あなたも、知っていたんですか。王家の人間として」
思わず、そう尋ねていた。声には、抑えきれない刺々しさが滲んでいた。
ミレアは驚いたように顔を上げ、それからゆっくりと首を横に振った。そしてサリナの灰褐色の目を正面から見返した。
「知らなかった。本当に。潮の心臓のことも、辺境が沈められている本当の理由も、昨日この神殿に来るまで知らなかった」
「信じろと言われても、すぐには」
「分かってる。わたしが王家に生まれたことは変えられない。あなたの故郷が沈んだことで、わたしが今生きているのだとしたら……その事実から、わたしは逃げない」
サリナはそれ以上何も言えず、石片を握ったまま海の方を見ていた。水平線の先に、まだ何も知らない島影がいくつも霞んで見える。あの島々もまた、いつか同じように数字の裏へ押し込まれ、名前を奪われていくのだろうか。
その日の午後、王都からヴァレド神官長が到着したという知らせが入った。
痩せた初老の男が、供の神官たちを従えて島に上陸した。白髪を隙なく撫でつけ、深く窪んだ目は、島民の視線を受けても揺れなかった。その足取りには一切の迷いがなかった。
サリナとミレアが古い神殿へ入ったことは、すでに伝わっているようだった。
「殿下」
ヴァレドは短く挨拶をすると、すぐに本題に入った。
「神殿で発見された物を、すべてお渡しいただきたい」
ミレアは一瞬迷ったが、地図の断片と、サリナが持っていた石片を差し出した。ただし、その石片に刻まれた言葉の意味までは、あえて説明しなかった。
ヴァレドは石片を手に取り、しばらく黙って見つめていた。表情は変わらなかったが、指先が石の縁をなぞる仕草に、わずかな緊張がにじんでいた。その姿は、長年隠し続けてきた何かの重みを、今この瞬間だけ手のひらに感じ取っているようだった。
「潮の心臓について、どこまでお知りになりましたか」
「辺境の海面を、中央から遠ざけるための装置だと」
ミレアがそう答えると、ヴァレドは軽く目を伏せ、否定しなかった。
「その通りです。潮の心臓は、王都と中央の豊かな島々から海水を遠ざける代わりに、その水を辺境の島々へ押し流す装置です」
「認めるんですね」
サリナが思わず口を挟んだ。ヴァレドはサリナへ視線を移して言った。
「隠したところで、いずれ気づかれることです。それに、認めることと、間違っていると認めることは、同じではありません」
「間違っているでしょう。一つの島を犠牲にして、他の島を守るなんて」
「では、あなたはどうしますか」
ヴァレドの声には、冷たさというより、疲れのようなものが滲んでいた。
「潮の心臓を止めれば、この一つの島は沈まずに済むかもしれない。しかし、これまで潮の心臓によって守られてきた十以上の島――王都を含む中央の島々には、一斉に高潮が押し寄せる。数万、数十万の人間が住む場所です」
「だからといって」
「トゥラ島一つを救えば、十以上の島が沈む。あなたはその選択に、正しさを見出せますか」
サリナは答えられなかった。喉の奥に、言葉にならない何かが詰まっているようだった。
ヴァレドは続けた。
「わたしたちは、私欲のためにこの制度を続けているのではありません。真実を明らかにしたところで、島民同士が『自分たちではなく別の島を沈めろ』と争うだけです。誰も救われません」
「でも、真実を隠したまま、犠牲を強いられる側だけが知らずに沈んでいくのは」
「七年前、あなたの故郷、セルカ島が沈んだことで」
ヴァレドの言葉に、サリナの胸が冷えた。まるで氷の塊を飲み込んだかのように、体の内側から急速に温度が失われていく感覚があった。
「王都周辺で予定されていた大規模な洪水が、未然に防がれました。あなたの故郷が沈んだことで、この王都に暮らす、あなたの友人であるリトを含む、何万もの人々が救われたのです」
サリナは何も言い返せなかった。事実だとしたら、それは自分がずっと憎んできた王国の理屈が、単なる私欲ではなかったことを意味する。
だが同時に、母の名前が消された理由にも繋がってしまう。王国のやり方は、憎むべきものだと思った。それでも、セルカ島が沈まなければリトたちが死んでいたという事実を、なかったことにはできなかった。
「あなたの母上は、それに気づき、王都へ訴えようとした。その結果がどうなったか、あなたも知っているはずです」
ヴァレドがそう言った直後、サリナの足もとで、ネムが低く鳴いた。
普段の眠そうな声とは違っていた。背中の殻を伏せるように体を縮め、ヴァレドの懐――母の文字が刻まれた石片のある場所へ顔を向けている。
「その生き物は、何を」
ヴァレドが眉をひそめた。
ネムの殻の奥から、途切れた声が漏れた。
「……イ、ナ……セル……カ……」
ヴァレドの表情が、初めて明確に揺れた。
「その海獣を、どこで見つけた」
「セルカ島が沈んだ翌朝です」
サリナが答えると、ヴァレドはしばらくネムを見つめた。
「そうか。まだ残っていたのか」
「何がですか」
だがヴァレドは答えず、石片を懐へしまい、ミレアの方へ向き直った。
「殿下。儀式の本当の役目を、正しくお伝えしておきます」
その声には、これまでの淡々とした調子とは違う、重みが加わっていた。
ヴァレドは、今度はミレアから目を逸らさなかった。
「トゥラ島が沈んだあと、あなたは死者すべての記憶を、潮の心臓へ捧げます」
ミレアは何も言わなかった。組んでいた指だけが、ゆっくりとほどけていった。その瞳の奥に浮かんでいたのは、恐怖でも怒りでもなく、ずっと昔から薄々気づいていた真実を、ようやく言葉として突きつけられた者だけが持つ、確かな覚悟の色だった。




