第三話 海底神殿の碑文
翌朝、潮が最も引く時刻に合わせて、サリナたちは小舟を出した。
空はまだ薄墨色に沈み、水平線の向こうにわずかな朱が滲んでいるだけだった。海面は不気味なほど穏やかで、波の音さえ普段より低く、まるで海全体が息を潜めて何かを待っているかのようだった。
乗り込んだのはサリナ、ミレア、そしてソイの三人。ネムも当然のように舳先へ乗り、殻を前へ向けたまま動かなかった。まるで進むべき方角を知っているかのように。その小さな体は普段よりも張りつめて見え、貝殻の奥から時折かすかな振動が伝わってくるようだった。
「本当にここでいいの?」
ミレアが尋ねると、ソイは迷いなく頷いた。
「うん。潮が引くのは、あと半刻くらい。それを過ぎたら、入口も海の中だから」
昨夜見た石造りの神殿は、朝の光の下で見ると、その大きさがよく分かった。屋根の大半はすでに崩れ、外壁も海水に長く洗われて角という角が丸くなっている。だが崩れながらも、かつての形をはっきりと留めていた。柱の並び方、入口の造り――サリナの目には、それが慰霊のための建物というより、何かを厳重に納めるための施設のように映った。
近づくほどに、石壁から海水に冷やされた空気が流れてきた。入口の奥は、朝になっても暗いままだった。
舟を岩場につなぐと、ソイが先に水へ降りた。
「ここからは、膝より深くなるところもあるよ」
サリナはミレアを振り返った。
「大丈夫ですか」
「潮読みの力があれば、水の中でも息はできる。泳ぐことにも不自由はないと教えられているわ」
「教えられている?」
サリナが聞き返すと、ミレアは一瞬だけ海面へ目を落とした。
「実際に試す機会が、これまでなかっただけ」
そう言って、ミレアはサリナより先に水へ足を踏み入れた。
三人は膝まで水に浸かりながら神殿の内部へ進んだ。冷たい海水が足首から膝へと這い上がり、その冷たさがそのまま緊張となって背筋を這い上っていく。
中は薄暗く、天井の裂け目から差す光の中を、細かな塵と水しぶきが漂っていた。
壁という壁に文字が刻まれていた形跡がある。だがそのほとんどが、故意に削り取られていた。
サリナは壁に手を這わせ、石工としての目でその表面をなぞっていく。
指先に触れる石は、海水を吸って冷えきっていた。
「こっちに来てください」
サリナが呼ぶと、ミレアとソイが駆け寄ってきた。壁の一角、比較的削りが浅い箇所があった。サリナの指先には、そこに残る本来の彫りの深さが、かすかに伝わってくる。
鑿の跡を読むように、影の付き方を確かめながら文字を追っていく。呼吸を整え、指先だけに神経を集中させる。この作業は、まるで死者の声を、削られた沈黙の奥から掘り起こすようなものだった。
「……潮の、心臓」
サリナがそうつぶやいた瞬間、ミレアの顔から表情が消えた。まるで何か冷たいものが背筋を通り抜けたかのように、その頬から一切の血の気が引いていく。
「知ってる言葉なの?」
「潮読み姫が向き合う相手だと、教えられてきた。海面の上昇を鎮める、神聖な装置だと」
だが壁に刻まれていた言葉は、その説明とはまるで違っていた。
サリナが読み解いた文字を辿ると、こう続いていた。
潮の心臓は、海を鎮めているのではない。海流の向きを変え、王都と中央の島々から水を遠ざける代わりに、その水を北と南の辺境へ押し流している。
一つの島を沈めることで、十の島を守る。
碑文はそう告げていた。
ミレアは碑文を見つめたまま、指一本動かさなかった。
「……それじゃ、潮の心臓は、海面を抑えているんじゃない。被害を、動かしているだけ」
「そう読めます」
サリナは声を抑えて答えた。だが、壁を見つめるミレアの横顔には、隠しようのない衝撃が浮かんでいた。
ソイは少し離れた場所で、崩れた床石の下から古い地図の断片を見つけていた。
「これ、見て。今の海図と全然違う」
広げられた地図には、今は海に沈んでいる旧王都と、島々に点在する小さな施設らしき印が描かれていた。紙はすでに黄ばみ、端の方は水に溶けて判別できないほど崩れていたが、中央の図案だけは、まるで意図的に守られていたかのように鮮明に残っていた。サリナはその印の並びを見て、あることに気づいた。
「これ……島ごとに、防潮のための仕組みがあったということですか」
「潮の心臓ができる前は、そうだったのかもしれない」
ミレアが地図に指を這わせながら言った。
「王国は、一つの大きな装置で中央だけを守る道を選んだ。それぞれの島を守る、小さな仕組みを維持するより」
地図の端には、施設の印とは別に、細長い石柱のような図がいくつも描かれていた。
「これは何でしょう」
サリナが指さすと、ミレアは顔を近づけた。石柱の表面には、波を四方へ分けるような紋様が刻まれている。昨日、島の路地で見た古い台座と同じ意匠だった。
「施設の一部……でしょうか」
ミレアが首をかしげた。
「でも、どの印にも同じ石柱が添えられている」
サリナが図を順に指で追う。
ソイが地図を横から覗き込んだ。
「持ち運ぶものなんじゃない?」
地図の一部は水に溶け、その図の横に書かれていたはずの文字は読めなくなっていた。残っているのは、細長い形と、波を分ける紋様だけだった。
サリナはその形を目に焼きつけた。何に使うものかは分からない。だが、地図を描いた者がわざわざ一基ずつ書き添えた以上、施設を動かすために欠かせないものなのだろう。
三人がその意味を噛みしめていたとき、外から波の音が変わった。ざあ、という音が、これまでより明らかに近く、明らかに強く聞こえてくる。
「潮が満ちてきてる」
ソイが真っ先に気づいた。入口だった場所から、すでに水位が上がり始めている。薄暗い神殿の中に、じわりと水音が忍び込んでくるのが分かった。
「戻らないと」
サリナが声をかけると、ミレアは頷いた。だが、いざ水の中へ足を踏み入れた瞬間、ミレアの体が固まった。
「ミレア?」
名前を呼んでも返事がない。水位が腰まで上がったところで、ミレアは金縛りにあったように動けなくなっていた。呼吸だけが浅く速くなっていく。
サリナはとっさに、腰に巻いていた命綱を外し、自分の手首とミレアの手首を強く結んだ。
「大丈夫。放しませんから」
サリナはその手を強く引き、ソイと三人で神殿を出た。水を掻き分けるたび、ミレアの体が重く沈み、何度も足を取られそうになった。
岩場に上がり、荒い息を整えるミレアの背を、サリナはしばらくさすっていた。
「泳げないんですか」
ようやく尋ねると、ミレアは俯いたまま小さく頷いた。
「幼いころ、事故があって……。潮読み姫は海中で呼吸できるはずなのに、水面が近づくと、体が動かなくなる」
「誰かに、話したことは」
「ない。潮読み姫が水を恐れるなんて、誰にも知られてはいけない」
サリナは、その弱さを恥じるように縮こまるミレアを見て、初めて彼女を王女ではなく一人の少女として見た気がした。これまで完璧に取り繕われていた仮面の下に、初めて素顔が覗いた瞬間だった。
「分かりました。言いません」
ミレアが顔を上げる。
「本当に?」
「わたしとあなたの間だけの話にします」
そう言ったとき、サリナは自分の口から自然に「ミレア」という名前が出ていたことに、少し遅れて気づいた。ミレアも同じことに気づいたのか、わずかに目を見開き、それから小さく笑った。初めて見る、飾らない笑みだった。潮に濡れた髪が額に張りつき、その表情はどこまでも幼く、どこまでも人間らしかった。
落ち着きを取り戻したところで、ソイが神殿の中から拾ってきた石片を差し出した。
「これも、床に落ちてた」
手のひらほどの大きさの、黒い石の欠片だった。表面には見覚えのある印が刻まれている。
サリナは息を呑んだ。
それは、セルカ島を示す紋だった。かつて故郷の慰霊石板に刻まれていたものと、同じ意匠。
石片を裏返す。
そこには、所々にわずかな崩れのある、几帳面な文字が刻まれていた。サリナはその筆跡を知っていた。
母の字だった。
潮は自然に島を選んでいるのではない。王が選んでいる。
母はここまで辿り着いていた。真実の一端を掴み、それを石へ刻んで残そうとしていた。
七年の時を経て、その言葉が娘の手に渡った。




