第二話 名前を持たない島民
マーヤが投げた紙は、しばらく誰にも拾われなかった。
波打ち際で裏返ったまま風にめくれている。白い紙面が波しぶきを浴びて、端からじわりと湿っていくのが見える。それはまるで、生きている間には見向きもされなかった名前たちが、最後にもう一度だけ海に濡れて消えていこうとしているようだった。ミレアはそれを見下ろし、やがて自分でかがんで拾い上げた。膝が砂につくのも構わなかった。
周囲の島民たちの視線が、一斉にミレアの背中へ集まる。王女が自ら泥にまみれた紙を拾うという光景に、誰もが戸惑いを隠せずにいた。
「ありがとう」
ミレアの声は小さかった。マーヤは眉をひそめる。感謝されるとは思っていなかったのだろう。
「礼を言われる筋合いじゃない。文句を言ったんだよ」
「分かってる。だから、ありがとう」
ミレアは紙を丁寧に払い、両手で持ち直した。そこに記された名前がまだ三百十二人分しかないことを、あらためて確かめるように。指先が名簿の行間をなぞるたび、そこに書かれなかった無数の人間の輪郭が、透けて見えているかのような表情だった。
「この紙に載っていない人たちの名前も、教えてほしい」
マーヤは値踏みするような目でミレアを見た。潮に焼けた顔の奥、疑いと諦めが混じり合った目だった。
「教えて、どうするんだい。石に刻めもしないくせに」
「刻めるようにする」
ミレアがそう言い切ったとき、後ろに控えていた神官の顔色が変わった。同行していた壮年の神官――名をオルドというが、慌てて割って入る。
「殿下、それは軽々しく口にできることではありません」
「知っている」
「潮読み姫が受け取る死者の記憶には、王国が定めた枠があります。名簿にない者の名を無制限に受け取れば、殿下の御身に何が起きるか」
「わかっている、と言っている」
ミレアの声に初めて硬さが混じった。オルドはそれ以上何も言えず口をつぐんだ。その沈黙の重さは、単なる遠慮ではなく、何か口にしてはならないことをかろうじて呑み込んだ者の顔つきだった。
サリナはその様子を少し離れた場所から見ていた。王家の決まりを前にしても、ミレアは引かなかった。
その夜、宿舎にあてがわれた漁師小屋で、ミレアはサリナを呼んだ。
風が板壁を打ち、遠くで波が絶え間なく崩れる音がしていた。潮の匂いが濃く、湿った空気が肌にまとわりつく。
「手伝ってほしいことがあるの」
ろうそくの明かりの下で、ミレアは白紙の帳面を広げていた。炎が揺れるたび、彼女の白い頬に細い影が這った。
「非公式の名簿を作りたい。王国が認めなくても、わたし自身が、一人ずつ聞いて回って書き留める。せめて、記憶だけでも」
「神官に見つかれば、ただでは済みませんよ」
「分かってる」
ミレアはうつむいたまま帳面の表紙を指でなぞった。
「でも、何も残さないよりはいい」
サリナは少しの間、ミレアの横顔を見ていた。この王女が本気でそう思っているのか、それとも自分を安心させるための言葉なのか、まだ判断がつかなかった。ろうそくの炎に照らされたミレアの横顔は、王族らしい気品を纏いながらも、どこか迷子の子どものように頼りなく見えた。それでも、断る理由はなかった。
翌日から、二人は島の家々を一軒ずつ回り始めた。
昼間は表向き、慰霊の下準備という名目で島を歩く。だが実際には公式の名簿に載らない者たちの名前と、その人が生きてきた短い証を聞き取っていった。
島の路地は狭く、干した魚の匂いと潮の匂いが混じり合って漂っていた。壁という壁に、これまで幾度となく高波に洗われてきた跡が残っている。剥がれかけた漆喰の下から、古い時代の別の家の輪郭がうっすらと透けて見える家もあった。島そのものが、幾層もの記憶の上に建っているようだった。
島の家々の間には、ときおり用途の分からない古い石造物が残っていた。腰ほどの高さの台座で、表面は苔と塩に覆われている。中央には、細長い何かを差し込むための窪みがあった。
「これは何ですか」
ミレアが尋ねると、案内していた島の老人は首を横に振った。
「さあな。わしが子どものころには、もう動かなくなっていた。昔は波除けの柱だったとも、海へ名前を届ける場所だったとも聞くが」
台座の側面には、波を四方へ分けるような古い紋様が刻まれていた。サリナは足を止め、その線を指でなぞった。長く潮風に晒されているにもかかわらず、彫りは不自然なほど深い。
けれど老人は、もう興味を失ったように歩き出していた。
「役に立たない石さ。堤防が壊れても、あれが島を守ってくれたことなんてない」
サリナもその場を離れた。だが、石に刻まれた紋様だけは、なぜか目の奥に残った。
年老いた漁師は税の代わりに納めていた魚の量を誇らしげに語った。皺だらけの手で網を編む仕草を見せながら、自分がどれほどこの海に人生を捧げてきたかを、誰かに聞いてほしいというように話し続けた。
異国から流れ着いた女は故郷の言葉で自分の名を三度繰り返し、正しく書き取れたかを何度も確かめた。その声には、名前を奪われることへの消えることのない恐怖がにじんでいた。
船上で生まれ育った一家は陸に家を持たないことを恥じるように、最初は名乗ろうとしなかった。彼らの目には、名を明かすことがそのまま危険を招くという、長年培われてきた警戒が張り付いていた。
その中に、ソイという少年がいた。
十二歳ほどの痩せた体つきの少年で、出生の記録を持たない船上民の子どもだ。潮風に焼けた茶色い髪は、長さが不揃いだった。潮の道を読むのが得意で、海図の代わりに砂の上へ島々の形を描いてみせた。指先で線を引く手つきは慎重だった。記録に載らない島まで、そこには迷いなく描かれていた。
ソイはミレアの前にしゃがみ込み、まっすぐに見上げてきた。その目には、子どもらしい無邪気さと、年齢に不釣り合いなほど乾いた諦観とが同居していた。
「王女さまがぼくの名前を覚えていたら」
少年はこれといった感情を込めずに言った。むしろ確認するような、事実を尋ねる口調だった。
「石に書かれなくても、それで残ったことになる?」
ミレアはすぐには答えられなかった。
帳面を持つ手がわずかに止まる。サリナはその沈黙が長すぎることに気づいていた。潮風が二人の間を吹き抜け、遠くの波音だけがやけに大きく響いた。
「……分からない」
ようやく絞り出された言葉は王女らしい答えではなかった。ソイは特に落胆した様子もなく、ただ「そっか」とだけ言うと、また海図の続きを描き始めた。その平然とした横顔が、かえってサリナの胸を締めつけた。この少年は、期待することにすら疲れてしまっているのだと分かったからだ。
その晩、ネムの様子がおかしかった。
サリナの傍らで丸くなっていた小さな海獣が、貝殻の中から低く震えるような音を立て始めたのだ。耳を澄ますと、それはいくつもの声が重なったもののように聞こえた。海の底から、無数の口が同時に名前を告げているような、粘つく響きだった。
名前が、囁かれている。
サリナは息を止めて聞き入った。無数の声の中に、一つだけ聞き覚えのある響きが混じっている気がした。
「……イナ」
母の名だった。空耳かもしれない。だが一度そう聞こえてしまうと、確かめずにはいられなかった。心臓が急に大きく脈打ち始め、指先が冷たくなっていくのを感じる。
ネムは落ち着かない様子で立ち上がり、殻を揺らしながら小屋の外へ向かおうとする。サリナが呼び止めても止まらず、島の北側、海へ半ば沈んだ古い建造物の方角へ、迷いのない足取りで進んでいく。行き先を最初から知っているようだった。
「ネム、待って」
サリナが後を追うと、ミレアも黙って立ち上がり、ついてきた。夜の砂浜は月光を浴びて青白く沈み、二人の足跡だけがその上に細く続いていく。
月明かりの下、波の引いた浅瀬の先に、崩れかけた石造りの建物が姿を見せていた。かつては立派な神殿だったのだろう。柱の一部は折れ、屋根はすでに海の中に沈んでいる。夜の闇に浮かぶその姿は、まるで海に半分だけ呑み込まれた巨大な墓標のようだった。近づくほどに、空気が重く湿り気を帯びていくのが分かる。
ネムは入口の前でようやく足を止め、貝殻を石壁にこすりつけるようにした。ぎ、と乾いた音が響き、その振動が壁全体にかすかに伝わっていくように見えた。
その壁には文字が刻まれていた跡があった。だがただの摩耗ではない。表面が意図的に削り取られ、元の文字の形が浅い凹凸としてかろうじて残っているだけだった。まるで誰かが、この場所に何が書かれていたかを、後世の誰にも知られたくないと考えたかのように。
サリナは石工としての目でその痕跡を追った。長年石を扱ってきた指先が、削られた線の奥に隠れた本来の形をなぞっていく。冷たい石の感触が、指の腹から腕へと這い上がってくるようだった。
浮かび上がってきたのは、王国の年号と〈潮読み姫〉という文字。そして、その先に続く言葉だった。
サリナは声に出して読み上げた。
「一つの島を沈めれば、十の島が残る」
その言葉が口から出た瞬間、周囲の空気がわずかに変わった気がした。波の音までもが、一瞬だけ息を潜めたように感じられる。ミレアは何も言わず、崩れた神殿の暗がりをじっと見つめていた。
波の音だけが二人の間に長く続いた。誰も、その静けさを破ろうとはしなかった。




