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海の底で、王女は国を数えている  作者: 明石竜


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第一話 沈む島の名簿

 石に名前を刻むとき、最初の一打だけはいつも少し怖い。

 鑿を当てる位置がほんのわずかにずれただけで、その人の名前は別の形になってしまう。削った石は元には戻らない。だからサリナは槌を振り下ろす前に必ず一度だけ息を止めた。

 王立石工院の朝は早い。まだ日の出から一刻と経たないうちから、石を打つ音があちこちの作業場から響き始める。海から運ばれてきた黒い石板が、広い作業場に何枚も並べられていた。表面には白い線で、これから刻まれる名前が下書きされている。その線の細さは、まるで生きているうちに引かれた最後の呼吸のようだとサリナは思うことがあった。

 石工院の建物は、王都の外れ、崖に沿って建てられている。窓の外には常に海があり、潮の匂いが板張りの床にまで染みついていた。この場所で働く者たちは皆、いずれ自分たちも名前を刻まれる側になることを、どこかで知っている。だからこそ誰も、石を粗末には扱わない。

 サリナはそのうちの一枚に屈み込み、鑿の先を最初の文字へ合わせた。濃い茶色の髪は邪魔にならないよう後ろで束ねていたが、ほどけた数本が日に焼けた頬へ張りついている。粗末な作業着の袖にも、白い石粉が染みついていた。

 カン、と乾いた音が響く。

 一度。二度。三度。 

 石の表面から小さな欠片が飛び散った。宙を舞う欠片は朝の光を受けて一瞬だけ白く光り、それから床に落ちて跳ね、静かに転がって止まる。誰かの名前の欠片が、こうしてただの石くずになっていくのを見るたび、サリナの胸の奥にはいつも小さな痛みが走った。

「力を入れすぎるな」

 背後から、ガラン親方の低い声がした。ガランは大柄な男で、短く刈った灰色の髪にも白い石粉をつけていた。

「分かってます」

「分かってるやつは、そんな返事をしない」

 サリナは答えず鑿の角度を少しだけ変えた。師匠の目はごまかせない。長年、石と向き合ってきた者の目は、力の入れ方一つでその人間の心の乱れまで見抜いてしまう。

 今刻んでいるのは南の小島で亡くなった漁師の名前だった。サリナはその人を知らない。どんな声で笑い、どんな船に乗り、誰を残して死んだのかも知らない。それでも鑿を当てるたびに、その人が確かに生きて、確かに誰かに愛され、確かに海へ出て戻らなかった一人の人間だったのだという実感だけが、指先を通して伝わってくる気がした。

 それでも名前だけは残る。

 石が割れず誰かに削られないかぎりは。

 サリナは時折、自分がこうして刻んでいる名前の中に、いつか誰かの手で削られてしまうものがあるのではないかと考える。石は嘘をつかないとガランは言う。だが、石に刻む人間が嘘をつけば、石そのものが嘘の入れ物になる。その考えに行き着くたび、サリナは自分の手元がひどく心許ないものに思えてくるのだった。

「サリナ」

 作業場の入口から、先輩見習いのリトが呼んだ。

 いつもならまだ寝癖を残している時間なのに、今日は妙に顔が引き締まっていた。手には青い封蝋のついた書状を持っている。

「王宮から使いが来てる。親方と、お前にだ」

 サリナの槌が止まった。

「わたしにも?」

「ああ。北の島が、沈むらしい」

 作業場の窓の向こうで朝の海が鈍く光っていた。普段なら穏やかに見えるはずのその光が、今は妙に冷たく、まるで何かを飲み込む寸前の獣の目のように見える。

「十日後に、トゥラ島がなくなる」

 その一言で、作業場の空気が変わった。周りの見習いたちが手を止め顔を見合わせる。海に浮かぶ島国では島が沈むという知らせは珍しいものではない。それでも日付まで区切られた予告は違う。国がはっきりと死を数え始めたということだからだ。

 誰かが小さく息を呑む音がした。誰も口には出さないが、この作業場にいる誰もが、いつか自分の生まれた場所も同じ知らせを受けるかもしれないと、心のどこかで理解していた。

 ガラン親方は書状を受け取り、封を切ることもなく、しばらくその重みを確かめるように手の中で返した。分厚い指先が、蝋の感触を確かめるように何度も動く。

「トゥラ島か」

 低くつぶやいた声に感情らしいものは乗っていなかった。だがサリナは、親方の太い指がわずかに強く紙を握ったのを見逃さなかった。長年、数えきれないほどの死者の名を刻んできた男の指が、ほんのわずかにでも強張るということが、どれほど珍しいことか、サリナはよく知っていた。

 書状には次代の潮読み姫である第二王女ミレアが、慰霊の儀式のためトゥラ島へ赴くこと、そして王立石工院から補佐の石工を一名同行させることが記されていた。名指しされていたのは見習いのサリナだった。

「なんで、わたしなんですか」

 思わず声が出た。石工院には自分より腕の立つ先輩が何人もいる。何より王女に仕えるような仕事は誰もが望むはずのものだ。

「文字の形をよく見る目と、削れた跡を読む目を買われたんだろう」

 ガランは短く答えた。それだけでは足りないと分かっていながら、それ以上は言わなかった。その沈黙の中に、何か言えないことが隠されている気がして、サリナは背筋にひやりとしたものを感じた。

 リトが横から肩を叩いてくる。

「すごいじゃないか、サリナ。王女さまの補佐だぞ。おれなんか一生かかっても声すらかけてもらえない」

 リトの声には純粋な羨望があった。彼にとってこれは確かな名誉であり、王都の下町から出てきた身にとっては手の届かない栄光なのだろう。屈託のないその笑顔を見ていると、サリナは自分の中にある暗い違和感が、余計に際立って感じられた。

 サリナはその気持ちを笑って受け止めることができなかった。

 王女のための美しい慰霊碑を作ることより、サリナが本当に手を動かしたいのは、名前を持たない者たちのための石だった。

 七年前、サリナの故郷であるセルカ島も同じように海へ沈んだ。あの日のことは今でも鮮明に覚えている。夜半に鳴り響いた鐘の音。浜へ押し寄せる黒い水。母の手を放してしまった、あの一瞬の冷たさ。

 王家が発表した慰霊石板には確かに多くの島民の名が刻まれた。母を亡くした幼いサリナは救援船に乗せられて王都へ運ばれ、そのまま石工院に引き取られて育った。石を削る技術を覚えたのはいつか自分の手で、母の名前を正しく刻み直すためだった。

 けれど慰霊石板の中に、母――イナ・セルカの名前はなかった。

 最初は単なる記録漏れだと思っていた。海が荒れた夜のことだ、書き忘れくらいあるだろうと。だが年月が経つほど、その欠落は不自然に思えてくる。石工院で何百枚もの石板を見てきたサリナは知っている。名前は簡単には抜け落ちない。抜け落ちたように見せかけて、削られることはあっても。

 夜中に一人、石灯りの下で名簿を見返すたび、サリナはその空白の意味を考え続けてきた。空白は、ただの空白ではない。誰かの意思によって作られた穴だ。そこに何を埋めるべきなのか、まだサリナには分からない。

 だからこそ、サリナは今回の仕事に素直に喜べなかった。

 王女の隣に立つことは、母の名を消した側に近づくことでもある。

 セルカ島が沈んだ翌朝、救援船へ引き上げられたのはサリナだけではなかった。

 濡れた木片にしがみつくようにして、小さな海獣が浮かんでいた。背中の貝殻にはひびが入り、近づくと、殻の奥から誰かの声に似た音がした。

 石工院へ引き取られてからも、その海獣はサリナのそばを離れなかった。サリナは、眠っているときに立てる低い音から、ネムと名づけた。

 なぜ自分についてきたのかは分からない。ただ、母の名前が消えた夜を知る唯一の存在のように思えて、手放すことができなかった。


 出発の朝、王家の船着き場でサリナは初めてミレア王女と顔を合わせた。

空は晴れているのに、港には妙に湿った風が吹いていた。潮の匂いに混じって、どこか鉄のような臭いがしたのは、きっと気のせいではなかった。

 淡い銀青色の長い髪を潮風になびかせ、青緑の瞳をした少女が供の者たちより先にサリナへ歩み寄ってきた。十六歳だと聞いていた。サリナより一つ上なだけだが、ずっと遠い世界の人間に見えた。王族らしい所作の中に、どこか硬さの残る歩き方だった。まるで、自分の足で歩くことにさえ慣れていないかのような。

「あなたがサリナね。会えてうれしい」

 ミレアはそう言って迷いなく手を差し出した。王女が見習い石工に自ら手を伸ばすなど、通常であればあり得ないことだった。

「殿下、と呼ばなくていいの?」

 サリナが尋ねると、ミレアはこう答えた。

「わたしのことは、ミレアと呼んで。この七日間、あなたとわたしは同じ仕事をするのだから」

 差し出された手を、サリナはすぐには取らなかった。

 ミレアの手のひらは白く傷ひとつない。石を削って生きてきたサリナの、硬いまめだらけの手とは違う。この手は、これまで一度も沈む島を見たことがないのだろう。血の通った温かさよりも、どこか作り物めいた滑らかさが、サリナには薄気味悪く映った。

「王女殿下は」

 サリナは、あえてその呼び方を選んだ。

「沈む島を、ご覧になったことがありますか」

 一瞬、船着き場に沈黙が落ちた。供の神官たちがわずかに顔をしかめる。だがミレアは表情を変えずに、淡々と答えた。

「ない。今までは、いつも報告書の中でしか知らなかった」

「そうですか」

 サリナはそれだけ言って、ようやくミレアの手を取った。短く儀礼的に。

「なら、これから見てください。数字ではなく」

 ミレアの瞳が、わずかに揺れた気がした。だがそれ以上何かを言うより早く、船が出航の合図を鳴らした。

 王家の船は北へ進んだ。

 航海の間、サリナは甲板に立って北の空を見上げることが多かった。

 夜になると、船縁から見下ろす海面には時折、奇妙な燐光が浮かんだ。船乗りたちはそれを「名なしの光」と呼び、決して指をさそうとしなかった。刻まれなかった死者の魂が、行き場を失ってさまよっているのだと、彼らは声を潜めて語った。サリナはその光を見つめながら、母の魂もどこかであの光に紛れているのではないかと考え、そのたびに息苦しいものが胸にせり上がってくるのを感じた。


 二日かけて海を渡り、船がトゥラ島に近づくにつれ、サリナは甲板から見える景色に息を呑んだ。

 小さな入江に沿って粗末な家々が肩を寄せ合うように並んでいる。桟橋には無数の漁船がつながれ、その間を子どもたちが走り回っていた。島の斜面には段々畑が刻まれ、崖の上には古い見張り台が立っている。滅びを待つ島には見えなかった。そこには確かに今も続いている暮らしがあった。

 その暮らしの一つ一つが、七日後には海の底へ消えてしまう。そう思うと、目に映る景色すべてが、すでに半分は失われたもののように見え始めた。子どもたちの笑い声さえ、遠く懐かしい記憶のように耳へ響いてくる。

 船が桟橋に着くと、島の代表らしい、四十代くらいの女性が待っていた。日に焼けた顔に迷いのない目をしていた。彼女はマーヤと名乗り、王家の一行を歓迎するでもなく、ただ淡々と島の現状を告げた。

「案内は必要ない。見ればわかる」

 マーヤの後ろには島民たちが集まっていた。その数は事前に神官が読み上げた公式の記録――三百十二人という数字を明らかに超えていた。老いも若きも、痩せた者も、赤子を抱いた女も、皆一様に無言でこちらを見つめている。その視線の重さに、サリナは思わず一歩あとずさりそうになった。

「王国の名簿では、この島の住民は三百十二人だそうですね」

 ミレアが確認するように言うと、マーヤは短く笑った。笑いというより乾いた息のようなものだった。

「五百以上いるよ、実際は」

 マーヤはそう言うと腰に挟んでいた紙束を引き抜いた。それは王国からトゥラ島へ送られてきた住民登録簿の写しだった。紙の端は潮風にすでに丸まり、長年何度も繰り返し開かれてきたことが分かる。

「税を払えない漁師も。よその国から逃げてきた者も。船で暮らしてて土地を持たない一家も。あんたらの記録には、端から名前がない人間が、この島にはごまんといる」

 サリナはその紙束に記された名前の数を目で追った。確かに少ない。あまりにも少ない。名簿の余白の広さが、そのまま存在を認められなかった人間の数を物語っているようで、サリナは喉の奥が締めつけられる感覚を覚えた。

 ミレアは何か言おうとして口を開いた。だがその前に、マーヤは持っていた紙束をミレアの足もとへ叩きつけるように投げた。

「生きているうちには数えなかったくせに」

 波の音の合間に、マーヤの声だけが硬く響いた。

「死んでから、国民にするのかい」

 紙は風にあおられ、砂の上でひらりと裏返った。そこには王国が「存在しない」とみなしてきた人々の暮らしが、名前という形にすらならないまま、ただ風に晒されていた。

 その紙が地面に落ちる音は、驚くほど小さかった。だがサリナの耳には、まるで石が割れるときの音のように、いつまでも残り続けていた。


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