白蛇様のお説教と、 大きな夢
朝の清々しい光が幣立の森を包み込み、葉の先に結ばれた朝露がキラキラと眩しく輝いていた。
「パパ、ママ、いってきまあす!」
アルスは元気に玄関を飛び出すと、落ち葉が敷き詰められた柔らかな山道を軽やかに駆け出していった。
「こらアルス、転ばないようにね! 今日もお昼には戻ってくるのですよ!」
台所から顔を出したメイファが優しく声をかける。
「大丈夫だよママ! 今日はしろへび様と、またお話ししに行くんだ!」
「ははは、白い丸太のお友達だな。怪我のないように遊んでくるのだぞ」
庭で木材を削っていたアルダシールも、頼もしい息子の背中を温かな目で見送った。
アルスが向かったのは、幣立の森の奥深くに隠された美しい滝壺であった。
ゴーゴーと響く激しい水音とともに、清らかな水しぶきが白く舞い上がり、周囲にはひんやりとした神聖な冷気が満ちている。
アルスが岩場に立ち、小さな手を口に当てて叫んだ。
「しろへびさーん! あそびに来たよー!」
すると、静かな滝壺の水面が大きく盛り上がり、白い泡とともにあの神聖なる白蛇が巨躯を現した。
金色の目がアルスを捕らえると、白蛇は低い地鳴りのような声で言った。
「来たか、アルスよ。相変わらず騒々しい童だ。今日は力くらべでも、背中の滑り台でもないぞ。お前には神の血と、この地に棲まう者としての真実を教えておかねばならんからな」
「えっ、お話し? うん、いいよ! ぼく、お話し聞くの大好き!」
アルスは滝壺の脇にある大きな丸石の上にちょこんと腰掛け、目を輝かせた。
白蛇は長い身を岩場にゆったりと巻きつけ、重々しい口調で語り始めた。
「心して聞くがよい。この我が統べる幣立の地、ここは単なる深い山ではない。太古の昔、天地が分かたれ、神々がこの日の本へと降り立った時、最初にすべての命と文明が興った始まりの聖地なのだ」
「はじまりの、せいち?」
アルスは首を傾げた。
「そうだ。お前が踏みしめているその土も、吸い込んでいるその空気も、すべては古の神々が分け与えた尊き恵み。東の海から昇る日輪の気、地底より湧き出る万物の霊脈、そのすべてが交差する枢軸こそが、この幣立なのだ。かつてはこの地に世界中のあらゆる民が集い、神々の教えを受け」
白蛇の講義は、どこまでも厳かで、難解な神話の歴史へと続いていった。
古代の神々の名、天地開闢の成り立ち、気の巡り、霊脈の配置。
最初は目を丸くして聞いていたアルスだったが、滝の清らかな水音と、白蛇の低く心地よい声の響きが、次第に子守唄のように聞こえ始めてきた。
「むにゃ、かみがみの」
アルスのおでこが、ぽわぽわと温かくなってくる。
小さな頭が前へ舟を漕ぎ、かくん、かくんと揺れ始めた。
「ゆえに、お前の父も母も、この地に導かれたのは偶然ではない。すべては運命の、ぬ?」
白蛇がふと話をやめ、アルスを見下ろした。
すでにアルスは目を閉じ、すー、すーと可愛らしい寝息を立てていたのだ。完全に熟睡している。
「これっ! これアルス!!」
白蛇はカッと目を見開くと、長い尻尾の先をふわりと持ち上げ、アルスの頭をポコンと叩いた。
「あやっ!?」
頭に軽い衝撃を受けたアルスは跳び起き、目を丸くして頭を擦った。
「あ、たた! びっくりしたあ!」
「お前という子は! 神々の尊き教えと、この世界の始まりの歴史を説いておるというのに、神の目の前で居眠りを決め込むとは何事か!」
白蛇がお説教するように角を揺らし、フシューと鼻息を漏らした。
「だってぇ、しろへび様のお話し、難しくて頭がぽわぽわしてきちゃったんだもん! むかしの神様のお名前、いっぱいありすぎるよ!」
アルスが口を尖らせて反論すると、白蛇は呆れたように大きな溜め息をついた。
「まったく、お前という童は、恐れを知らんのか、ただの大物なのか分からんわ。どんな武士でも震え上がる我が説法を、子守唄代わりにしよって」
そこへ、頭上の高い枝からガサガサと音がして、先日追いかけっこをした天狗の配下や、小さな森のあやかしたちが顔を出した。
「ヒヒッ、水神様、この子にそんな難しい昔話を聞かせても無理ですよ!」
「そうだそうだ、もっと面白おかしいお話をしてあげなよ!」
あやかしたちが口々に囃し立てると、白蛇は苦笑いを浮かべた。
「やれやれ、致し方ないな。ではアルス、難解な神話ではなく、この広い世界の『外』の話をしてやろう」
「そとの話!?」
アルスは一瞬で目を輝かせ、膝を乗り出した。
白蛇は遠い目をして、滝の向こうの空を見上げた。
「この幣立は始まりの地であるが、日の本、そしてその海の向こうには、果てしない世界が広がっている。雲を突き抜けるような巨大な極寒の山脈、足を踏み入れば二度と戻れぬ底なしの砂の海、夜空を焦がす炎の島。そこには、我らも見たことのない珍しい生き物や、強大な力を持った未知の者たちが無数におるのだ」
「うわあ! 氷の山! 砂の海!?」
あやかしたちも身を乗り出して語り始める。
「東の都にはな、人間がたくさん集まって、夜でも昼みたいに賑やかな街があるんだぞ!」
「海の向こうには、空を飛ぶ巨大な船や、光る石でできたお城があるって噂だ!」
あやかしたちが語る未知の世界の物語に、アルスの胸は高鳴り、全身の血が熱く脈打ち始めた。
自分の知らない広い世界。見たこともない景色、出会ったことのない面白いお友達。
アルスは両手を握りしめ、目を爛々と輝かせて叫んだ。
「ぼく、見に行きたい! 大きくなったら、この世界の果てまで、大ぼうけんに行くんだ!」
白蛇は、アルスのその瞳を見て息を呑んだ。
そこには、小さな子どもの単なる思いつきを超えた、底知れぬ意志の光が宿っていた。
父であるアルダシールの持つ圧倒的な強さと、母であるメイファの持つ優しさ、そしてこの地に宿る神々の気を受け継いだ存在。
この子が、この狭い山の奥だけで一生を終えるはずがない。やがてはこの地を飛び出し、世界を揺るがすような大冒険へと旅立っていくのだろう。
白蛇は静かに目を細め、柔らかい声で言った。
「そうか。大冒険か。よい夢だ。だがアルスよ、広い世界へ出るためには、もっと強く、もっと賢くなかねばならんぞ。生半可な気持ちでは、世界の険しさに呑み込まれてしまうからな」
「うん! ぼく、もっともっと強くなる! パパみたいに力持ちになって、色んないところへ行くんだ!」
アルスは元気いっぱいに胸を張った。
夕暮れ時、空が美しい茜色に染まる頃、アルスは走って家へと帰ってきた。
「パパ! ママ! ただいまー!」
「お帰りアルス。今日はとても楽しそうな顔をしているわね」
メイファが温かい手ぬぐいを持って出迎えると、アルスは手ぬぐいを受け取るのも忘れて、両親の前に仁王立ちした。
「パパ! ママ! ぼくね、決めたんだ!」
「ん? 一体何を決めたのだ?」
アルダシールが薪を置く手を止め、不思議そうに振り返る。
アルスは拳を握りしめ、大きな声で宣言した。
「ぼくね、大きくなったら、この山を飛び出して、広い世界へ大ぼうけんに行くの! 氷の山も、砂の海も、ぜーんぶ探検しに行くんだ!」
その言葉を聞いた瞬間、メイファは驚いて目を丸くし、すぐに心配そうな顔になった。
「まあ、大冒険ですって? アルス、何を言っているのですか。山を出た外の世界は、恐ろしい魔物や悪い人がたくさんいて、とても危険なのですよ」
「そうくだらんことを言うものではない」
アルダシールも少し厳しく表情を崩し、低い声で言った。
「外の世界がどれほど過酷か、お前はまだ何も知らないのだ。我が家で穏やかに暮らすのが一番なのだぞ」
普段は優しい両親が、揃って真剣な顔で自分を止めようとする。
普通の子どもであれば、両親の強い言葉に気圧されて諦めてしまうところだろう。
しかし、アルスは一歩も引かなかった。
まっすぐに二人を見つめ返し、キラキラとした瞳で訴えかけた。
「でもね、パパ! しろへび様やあやかしのお友達が教えてくれたんだ! 世界にはすっごく綺麗な景色や、面白そうなお友達がいっぱいいるんだって! ぼく、自分の目で確かめたいんだ! パパとママを守れるくらい強くなって、ぜったい大ぼうけんに行くんだから!」
アルダシールとメイファは、息を呑んで固まった。
その眼差しには、幼子とは思えぬ強い覚悟と、溢れんばかりの生命力が満ちあふれていた。
どんなに言葉で諭そうとも、この子の胸に灯った熱い炎を消すことはできないのではないか。
アルダシールはふと、かつて自分自身が過酷な地底世界を生き抜き、運命に立ち向かってきた日々のことを思い出した。我が子に受け継がれたのは、自分たちの血だけではない。未知への渇望と、運命を切り開く強靭な魂そのものなのだ。
「あなた」
不安そうに見上げるメイファに、アルダシールは複雑な吐息を漏らし、静かにアルスの頭に手を置いた。
「まったく、誰に似たのだか。だがアルス、言っておくが、そう簡単に許すわけにはいかんぞ。私を納得させるほどの強さと知恵を身につけるまでは、どこへも行かせんからな」
「うん! ぼく、パパをびっくりさせるくらい強くなるよ!」
アルスは嬉しそうにニッと笑い、自分の部屋へと元気に走っていった。
残された両親は、顔を見合わせて苦笑いを浮かべるしかなかった。
「本当に、あの子のまっすぐさには、敵いませんね」
「ああ。いくら親が心配して止めようとしても、いずれあの熱意に根負けしてしまう日が来るのかもしれんな」
その夜、静まり返った新居の屋根の上。
秋の澄んだ夜風がそよぐ中、はるか遠くの樹齢数百年の大木の枝に、ひとつの人影がそっと降り立った。
透き通るような美しい衣を纏った天女の姿、銀華である。
銀華は月明かりの下で自分の綺麗な爪を眺め、深く、深く溜め息をついた。
「やれやれ。あの呑気夫婦め。息子のあの瞳を見ても、まだ自分たちの手で引き留められると思っているのか」
銀華の九本の美しき尾が、夜風にふわりと揺れた。
「あの子のあの溢れる才能と、まっすぐすぎる気質、放っておけば、旅立った先で必ずや大きな災いに首を突っ込み、大変な目に遭うに決まっておる」
両親の優しさと甘さでは、いずれ旅立つアルスを陰から守り切ることなどできはしない。
自分が遠くへ旅立つと言いながらも、結局はこの健気で愛おしい坊やから目を離すことなどできないのだと、銀華は己の宿命をさとっていた。
「あの両親の代わりに、わしが陰から親代わりとなって付き添ってやらねばならんとはな。今から先が思いやられるわ」
銀華は胃のあたりをそっと押さえ、苦笑いを浮かべた。
しかし、その表情は決して嫌そうではなく、どこか愛おしさに満ちていた。
「見届けてやるとも、アルス。お前がどんな大きな夢を抱き、どんな世界へ羽ばたいていくのかをな」
天女の姿をした九尾の影は、静かに夜の闇へと溶け込み、遠い未来の輝かしい冒険へと思いを馳せるのだった。




