蛇の神様とあそぶ うちのむすこが怖すぎる
「パパ、今日のお弁当、おにぎり三つも入れてもらったよ!」
朝の陽光が差し込む食卓で、アルスが皮の袋を腰に結びつけながら、誇らしげに胸を張った。
「それは頼もしいな。だがアルス、あまり山奥まで入り込んではいけないよ」
アルダシールは木彫りの木樽から水を飲み、優しく諭すように言葉をかけた。
「わかってるよパパ! 今日は昨日のお友達に教えてもらった、綺麗なお滝のある場所まで行ってみるだけ!」
「まあ、お滝ですか? 水辺は足元が滑りますから、気をつけなさいね」
メイファがアルスの土汚れがついた服の袖を丁寧に整えながら、微笑みかける。
「はーい! 行ってきまあす!」
アルスは弾むような足取りで、新居の玄関を飛び出していった。
幣立の深山は、奥へ進むほどに樹木が立ち込み、ひんやりとした冷気が肌を刺すようになる。
ゴォと激しい水音が聞こえてくると、目の前がぱっと開けた。
切り立った岩肌から勢いよく水が躍り落ちる、美しい滝壺であった。
「うわあ、すごい! お水がキラキラしてる!」
アルスは滝壺の縁まで駆け寄り、清らかな水を両手ですくって顔を洗った。
その時、滝壺の水面が大きく盛り上がり、白い泡が巻き立った。
ズズ、と深い地鳴りのような音が響く。
水底から姿を現したのは、大木の幹ほどもある分厚い胴体を持った、神々しい白蛇であった。
頭部には小さな角のような突起があり、鋭い金色のかぎ爪のような瞳が、侵入者である幼いアルスを射抜く。
この山の水場を何百年も統べる、神の使いであった。
普通の人間であれば、その圧倒的な神威と巨躯を目にしただけで腰を抜かし、息も絶え絶えに逃げ惑うところである。
しかし、アルスは目を丸くした後、歓声をあげて手をたたいた。
「わあ! 白くて大きなツルツルすべり台だ!」
白蛇が威嚇のために鎌首をもたげ、大きな口を開けて低い咆哮をあげた瞬間であった。
アルスは恐怖を感じるどころか、助走をつけて岩場を蹴り、勢いよく白蛇の背中へと飛び乗った。
「やっほー! すごい、ツルツルして冷たくて気持ちいい!」
滑らかな白い鱗の上を、アルスは楽しそうに滑り降りていく。
白蛇はあまりの出来事に一瞬固まったが、すぐに怒りで全身の鱗を逆立てた。
神聖なる身を遊具扱いされた怒りから、白蛇は巨大な胴体を鞭のようにしならせ、乗っている小小な人間を絞め殺そうと一気に巻きついてきた。
巨石をも一瞬で粉砕する、恐ろしい水神の締め付けである。
その様子を、滝の上の高い木陰から見つめる存在があった。
姿を消した銀華である。
銀華は九本ある尾を逆立て、冷や汗をだらだらと流しながら身を乗り出した。
「あ、あれはあの古き水神の化身ではないか! いかん、いかんぞアルス! あれに巻きつかれたら、大人の武士とて一たまりもなく骨を砕かれる!」
助けに入ろうと身構えた銀華の目が、信じられない光景を捉えた。
「うわあ、力くらべだね! 負けないぞ!」
アルスは巻きついてくる白蛇の巨大な胴体に対し、小さな両手をしっかりと当てた。
むぎゅ、と音が聞こえそうなほどの力で、白蛇の締め付けを正面から受け止める。
本来なら幼子の腕など容易にへし折れるはずであった。
ところが、アルスの小さな体から溢れ出たのは、地底世界で鍛え抜かれた父の血と、古代の超人的な身のこなしであった。
アルスは踏ん張った足で岩場に深く立ち越し、白蛇の巨躯を押し返し始めたのだ。
「うーん! 締め付けちゃダメだよ! つなひきだー!」
ぐぐぐ、と白蛇の胴体が逆に押し戻されていく。
白蛇は金色の目を限界まで見開き、信じられないというように全身を震わせた。
どれほど力を込めても、目の前にいる幼子の腕を押し潰すことができない。それどころか、逆に腕力で押されているのだ。
「バカな……」
木陰の銀華は開いた口が塞がらなくなり、木から落ちそうになった。
「あやつ、あの水神の締め付けを素手で押し返しておるのか!? 一体どういう腕力をしているのだ! 親の遺伝子とはこれほどまでに恐ろしいものなのか!」
銀華は自分の頭を抱え、胃のあたりを押さえた。
「冷や冷やさせてくれるにも程があるわ! ああ、寿命が縮まる思いじゃ!」
数分間の壮絶な押し合いの末、白蛇の方が先に息を切らし、がっくりと頭を垂れた。
全身の力を使い果たした白蛇は、驚きと呆れが混ざったような目でアルスを見つめている。
アルスは汗をぬぐい、満足そうに白蛇の大きな鼻先を撫でた。
「ふう、楽しかった! 君、すごく強いね! ぼくの次に強いよ!」
白蛇はもう怒る気力もなくしたようで、気持ちよさそうにアルスに頭を擦り寄せてきた。
純粋な力と屈託のない笑顔に、山の神獣すらもあっさりと毒気を抜かれてしまったのだ。
「また明日も遊ぼうね! 一緒にお水に入ろう!」
アルスが声をかけると、白蛇は嬉しそうに尾を一度だけ揺らし、静かに滝壺の底へと戻っていった。
夕暮れ時、家に戻ったアルスは、着物のかすり傷も気にせず、両親に今日の出来事を報告した。
「パパ! ママ! 今日ね、山奥で白くて大きなツルツル丸太を見つけたんだよ!」
アルスが身乗り出して、身振り手振りに身振りを加える。
「まあ、ツルツルした丸太ですか? 泥だらけになって、元気に遊んできたのね」
メイファが温かいお湯で濡らした手ぬぐいで、アルスの顔や手を優しく拭いてやる。
「うん! その丸太ね、すっごく重くて、つなひきみたいにしがみついてきたんだ! ぼく、負けないでぐーっと押し返したんだよ!」
「ほう、そうか。山の中にそれほど立派な倒木があったのだな。大雨で流されてきたのかもしれない」
アルダシールは手作りの木製ベンチに腰掛け、豪快に笑いながらアルスの頭を撫でた。
「丸太と力くらべとは、アルスもなかなか逞しくなったな。良い運動になったろう」
「うん! すっごく楽しかった! 明日もまた行って、もっと大きな声で遊ぶんだ!」
「よろしい。だが怪我だけはしないようにな」
「はーい!」
仲良く会話を交わす温かな家族の風景。
その夜、月明かりが照らす屋根の上で、九尾の影がぽつりと落ちていた。
銀華は溜め息をつき、夜空を見上げて呟いた。
「倒木なわけがあるか、この親バカ夫婦め。あれは水神じゃ。あのままでは、近いうちに山の神々が全員、あの子の遊び相手にされてしまうぞ」
銀華の胃の痛むような心配をよそに、秋の澄んだ夜風が、幣立の山々を静かに吹き抜けていくのだった。




