神様のむすこは 今日も元気に駆け回る
「パパ、ママ、いってきまあす!」
朝の光がやわらかく差し込む玄関で、アルスが元気に靴を履いた。
「こらアルス、転ばないようにね。あまり遠くへ行ってはダメよ」
メイファが台所から顔を出し、濡れた手を小さな手拭いで拭きながら優しく声をかける。
「大丈夫だよママ! 裏の山の探検だから! すぐ近くだよ!」
「よし、行ってらっしゃい。お昼までには戻ってくるのだぞ」
アルダシールは庭で薪を割る手を止め、頼もしい息子の後ろ姿を嬉しそうに見送った。
「本当に元気ねえ、あなた」
「ああ。新居に移ってからというもの、体を動かしたくてたまらないらしい。男の子はあれくらい逞しい方がいいさ」
両親は互いに顔を見合わせて微笑み合い、それぞれの作業に戻っていった。
一方、アルスは家の裏手に広がる幣立の深い森の中へと元気に足を踏み入れいていた。
「うわあ、木のいい匂いがする! 風がとっても気持ちいいや!」
カサカサと落ち葉を踏みしめる音が心地よく響く。アルスは道端に落ちていた丈夫な木の枝を拾い上げると、格好よく振ってみせた。
その時、頭上の高い枝がガサリと大きく揺れた。
「ん? だれかいるの?」
アルスが見上げると、人の形をした黒い影のようなものが、枝から枝へと風のように飛び移っていくのが見えた。
「わあ! すごい! 跳んだ!」
その影は鋭い目つきでアルスを見下ろし、低い威嚇のような音を立てた。普通の子どもなら恐怖で泣き出して逃げ出すような、異質な気配だった。
「ねえねえ、君、追いかけっこしてるの? ぼくも仲間に入れてよ!」
アルスは怖がるどころか、目をキラキラと輝かせて駆け出した。
黒い影は驚いたように跳ね上がり、さらに高い枝へと逃れていく。
「待ってよお! 負けないぞ!」
アルスは大きな木の根を軽々と飛び越えた。
いつもなら足をすくわれて転んでしまうような急斜面も、なぜかすいすいと登っていく。
足の裏が地面に吸い付くような感覚だった。自分でも気づかないうちに、アルスの身のこなしは驚くほど軽やかで素早くなっていた。
その様子を、はるか上空の木陰から見つめている存在があった。
気配を完全に消して潜んでいる銀華である。
銀華は美しい九尾の尾を不安げに揺らし、青ざめた顔で小さく呟いた。
「おいおい、冗談ではないぞ! あれは山の奥に棲む烏天狗の配下ではないか!」
冷や汗が銀華の額を伝う。
「あんなあやかしと追いかけっこなどして、もし足を滑らせたらどうするのだ! あの高さから落ちたら、いくら人間の童とて無事では済まさんぞ!」
飛び出していって助けるべきか、銀華は胸を痛めてハラハラと爪を噛んだ。
「あの呑気な夫婦め! 息子がこのような危険な真似をしているとも知らずに! 家に戻ったら一言言ってやらねば気が済まんわ!」
「つーかまえた!」
アルスの元気な声が森中に響き渡った。
なんとアルスは、大木の幹をすいすいと駆け上がり、あやかしが潜んでいた太い枝の上にひらりと着地したのだ。
あやかしは目を見開き、全身の毛を逆立てて固まっている。まさか人間の子どもがここまで登ってくるとは思ってもみなかったのだ。
「ふう、追いついた! 君、すごく足が速いんだね!」
アルスはニコリと笑い、あやかしに向かって小さな手を差し出した。
「ぼくはアルス! 君の名前はなんていうの?」
あやかしかは襲いかかろうと鋭い爪を立てかけたが、アルスの純粋で澄み切った瞳と正面からぶつかり、動きを止めた。そこには一切の敵意も、恐れもなかった。ただ純粋な親愛の気持ちだけが満ちていた。
あやかしかは低い声を漏らしたものの、立てていた爪をゆっくりと引っ込めた。
「あ、怒ってないね? よかった! じゃあ次は、ぼくが逃げる番ね!」
アルスは枝の上でクルリと身を翻すと、風を切って隣の木へと飛び移った。
あやかしは呆気にとられた顔をした後、嬉しそうに声をあげてアルスを追いかけ始めた。
木陰の銀華は、その光景を目撃して開いた口が塞がらなかった。
「な、なにが起きているのだ……」
あやかしが人間の子どもを手にかけるどころか、まるで長年の友人のように楽しそうに戯れている。
「あのあやかしを、笑顔ひとつで懐柔したというのか? あの歳で、一体どんな肝っ玉をしているのだ……」
銀華は呆れ果ててため息をついた。
「ハラハラして損をしたわ。まったく、あの父親譲りの規格外さだな」
昼下がり、アルスは服に小さな葉っぱをたくさんつけたまま、楽しそうに家に帰ってきた。
「パパ! ママ! ただいまー!」
「お帰りアルス。まあまあ、髪の毛に葉っぱがいっぱいついているわよ」
メイファが屈み込み、アルスの頭から優しく葉っぱを払ってやる。
「あのねママ! きょうね、山の奥でとっても足が速いお友達ができたんだよ!」
「まあ、お友達? この近くに同じくらいの子がいたかしら」
「ううん、黒くて、パッと飛ぶお友達! 木の上を一緒に走ったんだ!」
アルスが両手を大きく振って身振り手振りに説明する。
アルダシールは薪を運びながら、豪快に笑った。
「ははは! 大きな山鳥と遊んできたのかな。アルスは昔から動物に好かれるからな」
「うん! 明日もまた遊ぶ約束をしたんだ!」
「そうかそうか。仲良くするのは良いことだ。さあ、手とお顔を洗って、美味しいスープを食べなさい」
「はあい!」
アルスは嬉しそうに奥の自分の部屋へと走っていった。
「本当に可愛い子ね。お友達ができてよかったわ」
「ああ、山の中で元気に駆け回るのが一番だ」
顔を見合わせて温かく微笑み合う両親。
家の屋根の上、秋の風がそよぐ中で、銀華はぽつりと呟いた。
「鳥なわけがあるか、この呑気夫婦め」
銀華の深いため息は、山の豊かな風の中に静かに消えていったのだった。




