幣立の森の大きな木のおうち 〜パパの作った家と優しい風〜
朝の光が幣立の巨木群を黄金色に染め上げる中、アルダシールの作業は二日目を迎えていた。
ただ雨露を凌ぐだけの掘っ立て小屋ではない。これから幾年、幾十年とここで暮らし、やがて生まれてくるであろう新しい命たちを抱き留めるための、堂々たる木造家屋。その中心となる一本の太い大黒柱が、削り出された丸太として地に横たわっていた。
アルダシールは己の分厚い掌で丸太の肌を撫でた。年輪の刻まれた重厚な木肌からは、この聖地が育んできた生命の力強さがひしひしと伝わってくる。
「パパ! この縄、ここに置くね!」
背後から、アルスの元気な声が響いた。もうすぐ九歳を迎える息子のアルスは、アルダシールが昨日なめしておいたツル草の頑丈な縄を、両手で抱えるようにして運んできた。その顔は汗と土で汚れていたが、瞳は澄み渡り、輝かんばかりの誇らしさに満ちている。
「助かるよ、アルス。お前が運んでくれたこの縄で、柱をしっかりと縛り合わせよう」
アルダシールがその頭を大きな手で撫でてやると、アルスは誇らしげに胸を張った。地底世界で難解な超古代文字を読み解いたその賢き頭脳は、いまや家を造るための実用的な知識と、家族を支える喜びを急速に吸収していた。
「あなた、お茶が入りましたわ。少し休んでくださいな」
メイファが、竹筒に汲んできた冷たい御神水に、香ばしく煎じた野草を浮かべて持ってきてくれた。その表情には、長年の逃避行で刻まれていた深い緊張の陰りは欠片もなく、柔らかな陽光のような温もりが宿っていた。
「かたじけない、メイファ」
竹筒を受け取り、一気に飲み干す。澄み切った清流の冷たさと野草のほろ苦さが喉を駆け抜け、体内に満ちていた熱を心地よく引き下げていった。
「よし、これで大黒柱を引き上げるぞ」
アルダシールは深呼吸をひとつすると、己の足にしっかりと力を込めた。
かつて波斯の宮廷戦士として鍛え上げ、地底世界でレプティリアンたちの奥義を叩き込まれたその驚異的な肉体。殺伐とした戦場で刃を振るうためにあった剛腕が、いまは愛する妻と息子のために大木を持ち上げる。
「ぬうっ!」
力強い唸り声とともに、大人が二人掛かりでも動かせぬほどの丸太が、ぐぐぐと立ち上がっていった。アルスが「すごい、パパ! 上がった!」と歓声をあげ、メイファが祈るように胸の前で手を合わせる。
寸分の狂いもなく土台の穴へと落ち込み、力強い音を立てて接地した大黒柱。すぐさまアルダシールは横木を渡し、アルスが運んだ頑丈な縄で固く締め上げていった。夕刻が近づく頃には、雨風を一切寄せ付けぬ立派な木造の骨組みと、厚い木の皮を重ね合わせた頑丈な屋根が完成していた。
「できた!俺たちの家だ」
アルダシールが汗を拭いながら見上げると、完成した家屋の屋根越しに、美しく染まりゆく茜色の夕暮れ空が広がっていた。
その日の夕食は、完成したばかりの屋根の下で執り行われた。
部屋の中央に固められた火床からは、心地よい薪のはぜる音が響いている。メイファが石鍋で煮込んだのは、朝一番にアルスが捕まえてきた新鮮な川魚と、山から採ってきたばかりの若芽の山菜、そして昨日獲ったイノシシの干し肉であった。
澄んだ御神水でじっくり煮込まれた汁物は、肉の濃密な出汁と野草の清々しい香りが溶け合い、一口すするだけで体の奥底から温もりが満ちてくる極上の味わいであった。
「美味しいね、ママ! 屋根があるところで食べると、なんだかすごく安心するよ!」
アルスが木彫りの椀を大事そうに抱え、汁を美味そうに飲み干す。
「ええ、本当にね。雨や風を心配せずに、こうして温かいご飯を頂けることが、どれほどありがたいか」
メイファはしみじみと頷き、向かいに座る夫へと愛おしげな視線の色を向けた。
「あなた、本当に立派なお家を建ててくださって、ありがとうございます」
「礼を言うのは俺の方だ、メイファ。お前とアルスがいてくれたからこそ、俺はこの家に太い柱を立てることができた。これから先、年を重ねるごとに家族が増えていくだろう。その時は、この家を横へ横へと部屋を増築し、いくらでも大きくしていこう」
アルダシールの力強い言葉に、メイファは頬を染めながら、静かに、しかし力強く頷いた。これからこの地で育まれていくであろう、賑やかで愛おしい子だくさんの未来を、夫婦は確かに思い描いていた。
夜が更け、山特有の冷涼な風が森を吹き抜けていく。
お腹いっぱいになったアルスは、新しく敷かれた柔らかい干し草と獣皮の上で、すやすやと心地よい寝息を立て始めていた。
アルダシールは静かに立ち上がり、完成したばかりの家屋の縁側へと足を進めた。頭上には、吸い込まれそうなほどの満天の星々が瞬いている。
その時であった。
清々しい夜風の波の中に、ふっと、絹のように柔らかな温もりが混ざり込んだ。姿は見えずとも、それは紛れもなく、自分たちをずっと見守り続けてくれている九尾の狐、銀華の気配であった。
銀華の気配は、アルダシールの肩のあたりを優しく撫でると、一瞬だけ、幣立の森を越えて遥か西の空へと伸びていった。
その視線の先にあるのは、かつてアルダシールが渡ってきたユーラシアの大陸。遥かなるシルクロードの果て、タクラマカン砂漠の灼熱の砂の下で、三千八百年の時を超えて静かに眠り続ける、あの異国の美しき足跡。小河の地で微笑みを浮かべて眠るあの姿の記憶へと思いを馳せるかのように、銀華の気配は遠く西の空へとしばし揺らめいた。
だが、その揺らめきは切なさを含むものではなかった。どこか懐かしく、悠久の時の流れを慈しむような温かな揺らめきであった。
やがて風が止むと、銀華の気配は再びこの温かな家屋へと戻り、すやすやと眠るアルスの小さな体を、そして寄り添うアルダシールとメイファの体を、そっと包み込むように留まった。
「見守っていてくれるのだな、銀華」
アルダシールは心の中で静かに語りかけた。
かつてアリアの側にあり、いまは姿を変えて自分たちと共に歩む気配。この聖地で命を紡ぎ、やがて各地へと広がっていくであろう我が子たちの未来を、そしていつか巡り来るであろう来世の約束を、彼女もまた静かに見守っているのだと分かった。
「あなた、どうなさったの?」
部屋の奥から、メイファが心配そうに声をかけてきた。
「いや、なんでもない。風が心地よかっただけだ」
アルダシールは振り返り、愛する妻のもとへと戻った。
太い大黒柱が見守る新しい家の中で、家族の呼吸がひとつに重なっていく。ササン朝ペルシャの滅亡から始まった長く凄絶な逃亡の歴史は、ここに完全なる安息の瞬間を迎えたのだった。
明日もまた、この清らかな地で、家族の笑顔とともに穏やかな一日が始まっていく。




