幣立の地で始める豊かな暮らし
幣立の地で迎えた初めての朝は、これまで幾度となく重ねてきたどの朝とも違っていた。
耳をすませても、背後から迫る影喰らいの禍々しい気配や、風を切る刺客の刃の音は一切聞こえない。聞こえるのは、太古の巨木たちが葉を擦り合わせる柔らかな音色と、岩間を心地よく駆け抜ける清流のせせらぎ、そして小鳥たちの清らかなさえずりだけであった。
アルダシールはゆっくりと瞼を開け、木漏れ日が降り注ぐ天を見上げた。胸の奥深くまで聖地の冷気を吸い込む。追われる恐怖のない本当の静寂が、全身の強張りをもみほぐしていくようであった。
「おはよう、あなた」
隣で目を覚ましたメイファが、実に穏やかな微笑みを向けてきた。その瞳には、かつて大陸で追走劇を繰り広げていた頃の怯えや疲弊の影は、もうどこにも見当たらなかった。
「ああ、おはよう、メイファ。良い朝だな」
「パパ、ママ! おはよう!」
元気いっぱいの声とともに、八歳になる息子のアルスが跳び起きてきた。アルスは小さく伸びをすると、そのまま清流へと駆け寄り、冷たい御神水で気持ち良さそうに顔を洗った。地底世界で超古代文字を読み解き、長老たちを驚かせたあの賢き少年は、いまや輝くような笑顔を浮かべる等身大の男の子であった。
アルダシールも立ち上がり、ふたりに続いて御神水を口に含んだ。澄み渡る水が喉を潤し、腹の底から生命力が沸き上がってくるのを感じた。
ただ雨露を凌ぐだけの掘っ立て小屋を作るつもりは毛頭なかった。これから先、ここで長く暮らしていくのだ。雨風にびくともしない頑丈な木造の家屋を建てなければならない。それも、これから年月を重ね、家族が増えていくにしたがって、部屋を継ぎ足し、どんどん大きく拡張していけるような立派な大黒柱を持った家を、とアルダシールは心に描いていた。
「メイファ、アルス。俺は今日から家を建てるための木材を削り出す。二人にはすまないが、この周辺で食材となる山菜や川魚を探してきてくれないか」
「はい、あなた。この豊かな山なら、美味しい恵みがたくさん見つかりそうですわ」
「うん! 僕、お魚を捕まえるの得意だよ!」
アルスは胸を張り、メイファの手をしっかりと握って、緑豊かな森の奥へと嬉しそうに出かけて行った。
ふたりの背中を頼もしく見送ったアルダシールは、己の腰に差した刃物に視線を落とし、腕を軽く回した。
波斯の宮廷戦士として鍛え上げた武芸、そして地底世界でレプティリアンたちと共に過ごす中で極めた凄絶な格闘技の技量。これまで命を奪うため、あるいは大切なものを守り抜くために振りかざしてきたその超人的な肉体と力を、これからは「家族の家を建てるため」だけに使うのだ。その事に、アルダシールの胸には得も言われぬ温かな喜びが込み上げてきた。
アルダシールは倒木や適度な太さの木々を選び取ると、刃を振るって力強く切り出していった。鋼のような筋肉が収縮し、見事な太さの丸太が次々と揃えられていく。柱を立てるための地固めを行い、深い穴を掘り、寸分の狂いもなく土台を築いていく作業は、まさに力仕事そのものであったが、その一動作ごとに家族の未来が形作られていく感覚があった。
昼過ぎ、森の奥から賑やかな声が近づいてきた。
「パパ! 見て見て、こんなにたくさん捕れたよ!」
アルスが仕入れた竹で編んだ籠を掲げて走ってきた。その中には、清流で跳ねる大きな川魚が何匹も躍っていた。メイファの手には、新鮮でみずみずしい山菜や野草、そして木の実がどっさりと抱えられている。
「素晴らしいな、アルス、メイファ。これで極上の昼飯が食えそうだ」
「ふふ、これだけではありませんのよ」
メイファが嬉しそうに微笑むと、その背後の草むらから、肥え太った見事なイノシシが姿を現した。アルダシールが木材を削り出す大きな音を聞きつけて近づいてきていたのだろう。
アルダシールは即座に気配を消し、間合いを詰めた。かつて無数の戦場を駆け抜けた身体は、一瞬の好機も見逃さない。鋭い手刀が一閃し、イノシシは苦しむ間もなく静かに崩れ落ちた。
「すごいやパパ! 一打で倒しちゃうなんて!」
アルスが目を輝かせて歓声をあげる。
「よし、最高の恵みだ。さっそく捌いて料理にしよう」
アルダシールは素早くイノシシを解体し、血抜きを済ませて新鮮な肉を切り出した。
メイファは澄んだ御神水を汲み、大きな石の窪みや竹筒を利用して、集めてきた新鮮な山菜とイノシシの肉をじっくりと煮込み始めた。一方で、アルスが捕まえた川魚は串に刺し、焚き火の周りに並べて塩を振り、じっくりと焼き上げていく。
香ばしい肉の脂が落ちる音と、山菜の爽やかな香りが広がり、三人の食欲を激しく刺激した。
「さあ、出来上がりましたわ。二人とも召し上がってください」
焼き上がった川魚の皮はパリッと香ばしく、身はふっくらと柔らかい。口に含めば、清流で育った魚ならではの甘みと旨味が広がった。山菜とイノシシ肉の煮込みは、肉の濃密な味わいと野草のほろ苦さが絶妙に絡み合い、御神水の清らかさも相まって、これまでに食べたどんな御馳走よりも深い味わいであった。
「うわあ! すごく美味しい! パパ、お肉がとっても柔らかいよ!」
アルスは口一杯に頬張りながら、満面の笑みを浮かべた。
「本当に美味しいわね。こんなに心から味わって食事をしたのは、一体いつ以来でしょう」
メイファは目頭を熱くさせながら、じっくりと味わっていた。
「これから毎日、こんな美味しい飯が食えるのだ。メイファ、アルス。俺たちが建てるこの家は、ただ雨風を凌ぐ場所ではない。お前たちが安心して笑い、温かい飯を食べ、健やかに眠るための場所だ。年々、家族が増えるたびにこの家をどんどん大きく拡張していこう」
アルダシールの力強い言葉に、メイファは深々と頷き、愛おしそうに夫の肩に頭を預けた。
「はい、あなた。あなたとどこまでも共に生きていけることが、私の最高の幸せです」
ふと、爽やかな風が吹き抜け、焚き火の煙を揺らした。その風の残り香の中に、姿は見えずとも、見守ってくれている銀華の温かな気配をアルダシールは確かに感じ取っていた。
太陽が西の山並みに沈み、空が美しい茜色から深い星空へと移り変わっていく。
組み立てられた立派な大黒柱と土台の木々が、夕闇の中に力強く浮かび上がっていた。まだ完成には遠いが、そこには確かに家族の「家」としての骨組みが立ち上がりつつあった。
アルダシールはメイファを優しく抱き寄せ、アルスの頭を撫でながら、満天の星々を見上げた。
ササン朝ペルシャの滅亡、九十年に及ぶ時空の空白、長安での激動、雲南での悲劇、そして地底世界での修練と海を渡っての逃亡。その長く苦しかったすべての道程は、いま目の前にあるこの温かな家族の微笑みと、豊かな毎日のためにあったのだと確信していた。
「明日も家造りの続きだ。美味い飯を食って、もっと頑丈な柱を立てるぞ」
「うん! 僕もいっぱい手伝うね、パパ!」
「ふふ、無理をなさらないでくださいね、あなた」
薪のはぜる温かな音と、家族の弾む会話が、聖地の夜に優しく響き渡っていた。
幣立の地で紡がれる彼らの新しい暮らしは、極上の恵みとともに、力強い第一歩を踏み出したのだった。




