九州の山奥を抜けた先に日本最古の聖地があった〜清冽な霊気と御神水に包まれたので、ここを終の棲家に決めました〜
天女の乗った光の円盤が夜空の彼方へ消え去り、山肌に導かれたひと筋の光の道標。北東の尾根道を辿りながら、アルダシール、メイファ、アルスの親子三人は一歩一歩踏みしめるように歩みを進め続けていた。
夜がゆっくりと明け始め、東の空が深みのある群青色から黄金色へと染まりゆく。山肌を不気味に覆っていた発光霧は跡形もなく消え去り、澄み渡る朝の光が九州山地の深い緑を優しく照らし出していた。
鬱蒼とした樹海を抜けたその瞬間、目の前の視界が一気にひらけた。
立ち込めいていた朝靄が、まるで見えない大いなる手が左右に払ったかのように、滑らかに退いく。その向こうから姿を現したのは、人が踏み入ることを固く拒んできた太古の面影をそのまま現代に残した、神聖なる大地であった。
一歩その地に足を踏み入れた瞬間、アルダシールの胸の奥まで透き通るような冷気が満ちた。それは単なる山中の冷気ではない。天地が開かれた最初の一瞬からこの場所に留まり続けているかのような、あまりにも清冽で重厚な霊気であった。
「ここが」
アルダシールは足を止め、深く息を吐き出しながら眼前に広がる光景を仰ぎ見た。
そこには、悠久の刻を生き抜いてきた見上げるほどの巨木群が聳え立っていた。樹齢幾百年、あるいは幾千年とも知れぬ大木たちの幹は幾重にも太く、太古の記憶をその肌に深く刻み込んでいる。青々とした枝葉は天を覆うように広がり、その隙間から差し込む朝の光は、まるで天からの祝福の光降のように地上を照らしていた。
風が揺らす葉音の音色すらも、これまで歩んできた幾多の山々とはまったく異なっている。静寂の中に響くその音は、まるで心が洗われていくような不思議な響きを伴っていた。
傍らで、妻のメイファが小さく息を飲んだ。
彼女の頬をかすめる風には、湿り気を含んだ清らかな香りが漂っている。大陸での過酷な苦難、幾度もの命の危険、そして影喰らいの追撃を乗り越えてきた彼女の瞳に、うっすらと涙が浮かんでいた。幾多の試練に耐え抜いてきた身体の緊張が、この地の霊気に触れた途端、解きほぐされていくのを全身で感じていたのだった。
「あなた、この場所はまるで世界が始まったばかりの場所のようです。今まで歩んできたどの土地とも違います」
メイファの細く繊細な声が、神聖な森の静寂に優しく溶けていく。
アルダシールは優しく彼女の肩を抱き寄せた。その温もりは、激動の旅路を共に歩んでくれた最愛の妻との固い絆の証であった。アルダシールにとって、幾多の死線をくぐり抜け、いま目前に立つメイファは何よりも愛おしく、命をかけて守り抜くべきかけがえのない存在であった。
ふと、ふたりの足元で小さな足音が響いた。
八歳になる息子のアルスが、落ち葉を踏み締めながら一歩前へと駆け出していった。アルスは目を大きく見開き、巨木たちの頂きと澄み渡る空を見つめている。
三人で影喰の恐ろしい追撃と闘いながら必死で逃げていた際、足元が崩れて地底世界へと落ちてしまったあの日の出来味が、アルダシールの脳裏に鮮やかによみがえった。
あの暗黒の地底で家族三人全員を救ってくれたのが、古くからその地に暮らすレプティリアンたちであった。レプティリアンたちの庇護のもと、しばらくの間、家族揃ってその手厚い世話を受けたのだ。
その滞在の日々の中で、アルダシールはレプティリアンたちの凄絶な武術や格闘技を学び、その奥義を極めていった。一方、幼いアルスは様々な学問や歴史を熱心に教えてもらった。驚くべきことに、アルスは教えられてもいない超古代文字をなぜかスラスラと読み解くことができ、その非凡な才能と無邪気さによって、レプティリアンの長老たちから深く愛され、可愛がられたのである。
地上に戻った今も、アルスの幼き頭脳には地球の底で学んだ古代の記録と知恵が鮮明に刻まれていた。しかし、大好きな両親の前で見せる表情は、どこまでも無邪気で愛くるしい八歳の男の子そのものであった。
アルスは小さな手をあげて、息を弾ませながら振り返った。
「パパ、ママ。おじいちゃんたちがね、教えてくれたんだよ。この場所は地球の脈が交わる、すごく特別な聖地なんだって。天と地、それから星たちの記憶がぜんぶここに集まってるんだ。日本で一番古い神様の記憶が眠る、幣立っていう場所なんだよ」
アルスの声には、子供らしい無邪気さと、一生懸命に覚えた知識を大好きな両親に伝えようとする愛らしさが溢れていた。
空から降り立ったあの神秘的な天女と、自分たちを影から見守る九尾の狐である銀華が、同じ星の向こうからやってきた地球外の同族であるという真実に思い至ったばかりであった。アルスの無垢な言葉は、まさにその真実を証明するものであった。この幣立の地こそが、遠い星々の記憶と最も深く繋がっている本源の地なのだ。
アルスは足元を流れる小さな清流へと駆け寄り、楽しそうに膝をついた。岩間からとうとうと湧き出る御神水は、水晶のように澄み渡り、微かに蒼い光を帯びているかのようであった。
「パパ、ママ、お水がすごく綺麗だよ」
アルダシールもまた、アルスに続いて腰を落とし、掌でその冷たい水をすくった。口に含むと、身体の隅々にまで清らかな命の波動が染み渡っていくのを感じた。長年の流転の旅で蓄積していた疲弊や、自らの血脈に刻まれた重圧すらも、この一滴の水が綺麗に洗い流してくれるかのようだった。
「世界の理とは、誠に不可思議なものだな」
アルダシールは静かに呟いた。
「私たちがどれほど遠く離れた波斯の地から流れてこようとも、この場所に辿り着くことが決められていたのかもしれない。すべては天の采配なのだ」
波斯の宮廷守護戦士として生きてきた過去、流転の果てに渡った大陸での激闘、地底世界での驚くべき出会い、そして命がけで海を渡り辿り着いたこの極東の島国。そのすべてが、この聖地へと自分たちを導くための大きな流れであったのだと、今ならはっきりと理解できた。
その時、一陣の清風が吹き抜け、巨木たちの枝葉が一斉に鳴った。さやさやと重なり合う葉音の中に、どこか懐かしい気配が混ざり込んでいることにアルダシールは気づいた。
姿こそ見えねば、アリアの魂と共に日本へ渡った九尾の狐、銀華が常に彼らのすぐ側に寄り添い、守護の目で見守っている。その温かな気配が、風に乗って優しく三人の身体を包み込んだ。
メイファがアルダシールの隣にそっと寄り添い、御神水に指先を浸した。彼女の柔らかな表情には、深い安心感と幸福感が満ちていた。
メイファは夫の胸の内に眠る過去や面影を静かに受け入れつつも、今まさに自分とアルスに向けて注がれている夫の命がけの深い愛を、誰よりも強く実感していた。この人と共にあること、この人と歩んできた道に、何一つの後悔もなかった。
「あなた。ここでなら、私たちは穏やかに生きていける気がいたします。アルスも、そして私たちを見守ってくれている存在も、みんなが満たされる場所がここなのですね」
メイファの瞳から溢れ出た一滴の涙が、御神水の水面へと落ち、小さな波紋を描いた。それは悲しみの涙ではなく、長い苦難の旅がようやく終わりを迎えたという安堵の涙であった。
アルダシールは静かに立ち上がり、深く息を吸い込んだ。
周りの太古の巨木たちが、まるで新しく訪れた家族を温かく迎え入れるかのように、深く静かな安らぎを差し出している。
自らの内に流れるササン朝ペルシャの古代の命脈。それは滅びと流転の歴史であったが、この日本最古の聖地において、ついに安息の刻を得ようとしていた。異国の血も、異界の知恵も、この幣立の地はすべてを深く包み込み、優しく昇華させてくれる。
アルダシールは力強くメイファの肩を抱き寄せ、アルスの頭を愛おしそうに撫でた。
「ああ、決めたぞ、メイファ、アルス。ここだ。この清冽な風と巨木に抱かれたこの地こそ、私たちが辿り着くべき場所だったのだ。ここを、私たちの終の棲家としよう」
「うん、パパ、ママ。僕、ここが大好き」
アルスは満面の笑みを浮かべて大きく頷き、両親の手を力強く握りしめた。
アルダシールの宣言に応えるかのように、再び温かな風が吹き抜けた。樹々の隙間から差し込む朝の光が彼ら三人を黄金色に包み込み、見えない銀華の気配が、祝福するように静かにその輪郭を揺らしていた。
果てしない流転と逃亡の旅は、ここに完全な終わりを告げた。
新たな歴史の根が、この聖なる太古の大地へと、深く、強く下ろされようとしていた。




