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ハプロB51 鬼と狐  作者: 秋津ネオ
9/12

水底

夜の名残が、宮殿の屋根に貼りついていた。

明け方の光が差し込むはずの刻限を過ぎても、 回廊の影は薄まらない。


アルダシールは、

その“影の粘り”に違和感を覚えた。


昨夜──

宮殿のどこかで扉が内側から閉じた。

その音が、まだ胸の奥に残っている。


今朝の宮殿は、 いつもの静けさではなかった。


女官の足音がない。

兵の交代の声もない。

ただ、

“何かが動き出す前の沈黙”だけが漂っていた。


アルダシールは歩きながら、 空気の流れが微かに逆向きになっていることに気づいた。


宮殿が、 ゆっくりと“別の意図”に合わせて形を変え始めている。


庭へ向かうと、 石畳の中央に、紙片が一枚だけ置かれていた。


拾い上げると、 墨の跡がまだ乾ききっていない。


そこには、 たった一言だけ書かれていた。


「逃げるな」


アリヤの筆跡ではない。

影影のものでもない。

もっと人間的で、 しかし“人間ではない何か”の気配が混ざっていた。


アルダシールは紙片を握りつぶした。


──アリヤが危ない。


その瞬間、 背後で衣擦れの音がした。


振り返ると、 黒衣の密偵が立っていた。


顔の半分を覆い、 目だけが異様に光っている。


「異国の戦士よ。

 昨夜、宮殿の水路で“動き”があった。

 お前は何を知っている」


アルダシールは答えなかった。


密偵は一歩近づいた。


「アリヤ殿は皇帝の御心に関わる。

 勝手な行動は許されぬ。

 彼女は宮殿から出られぬ」


アルダシールは低く言った。


「お前たちこそ、

 何を恐れている」


密偵の目が揺れた。


「……影が動いている。

 宮殿の奥で“何か”が目覚めた。

 我らにも制御できぬ。

 だから──

 アリヤ殿を外へ出すわけにはいかぬ」


その声には、

人間の焦りと、

影の主の“命令”が混ざっていた。


アルダシールが剣に手をかけた瞬間、 回廊の奥で別の気配が立ち上がった。


生きた人間の気配。

だが、影影とは違う。


異国の衣をまといながら、 唐の宮廷に溶け込むような歩き方。


安倍晴明の随行者だった。


男はアルダシールを一瞥し、

静かに言った。


「あなたは、

 アリヤ殿と共に動くつもりだな」


アルダシールは答えなかった。


男は続けた。


「影の主は、

 宮殿そのものを“器”にしようとしている。

 廊下の曲がり角、扉の開閉、

 女官たちの動き──

 すべてが“別の意図”に並べ替えられている」


密偵が叫んだ。


「黙れ!

 異国の術者め──」


男は密偵を見ずに言った。


「あなたたち宮廷は、

 すでに“内側”を掌握されている。

 気づいていないのは、

 あなたたちだけだ」


密偵の顔が青ざめた。


アルダシールは言った。


「アリヤはどこだ」


男は短く答えた。


「水路へ向かった。

 だが──

 影影が先に動いた」


アルダシールの胸が冷えた。


「間に合うのか」


男は首を振った。


「間に合わせるしかない。

 あなたが行かなければ、

 アリヤ殿は“内側”に引きずり込まれる」


アルダシールは走り出した。


回廊を抜け、 庭を越え、 池の縁へ向かう。


水面が、 風もないのに荒れていた。


水底から、

黒い“手”のような影が伸びている。


アリヤの姿は見えない。


アルダシールは池に飛び込んだ。


冷たい水が身体を包む。

耳の奥で、 低い声が響いた。


──来るな。

──これは“器”のものだ。

──お前は関係ない。


アルダシールは水をかき分けた。


水底で、アリヤが影に絡め取られていた。


瞳が揺れ、唇が震え、心の奥に“別の声”が入り込もうとしている。


アルダシールは彼女の腕を掴んだ。


「アリヤ!」


アリヤの瞳が、一瞬だけ“彼女自身の光”を取り戻した。


「……来ないで……

 あなたまで……

 影に……」


アルダシールは言った。


「もう遅い。

 俺は“見られた”。

 なら──

 お前を連れて行く」


影が二人を包もうとした瞬間、水底の奥で“何か”が裂けた。


宮殿のどこかで、再び扉が閉じる音がした。


だが今度は──

外側から閉じられた音だった


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