水底
夜の名残が、宮殿の屋根に貼りついていた。
明け方の光が差し込むはずの刻限を過ぎても、 回廊の影は薄まらない。
アルダシールは、
その“影の粘り”に違和感を覚えた。
昨夜──
宮殿のどこかで扉が内側から閉じた。
その音が、まだ胸の奥に残っている。
今朝の宮殿は、 いつもの静けさではなかった。
女官の足音がない。
兵の交代の声もない。
ただ、
“何かが動き出す前の沈黙”だけが漂っていた。
アルダシールは歩きながら、 空気の流れが微かに逆向きになっていることに気づいた。
宮殿が、 ゆっくりと“別の意図”に合わせて形を変え始めている。
庭へ向かうと、 石畳の中央に、紙片が一枚だけ置かれていた。
拾い上げると、 墨の跡がまだ乾ききっていない。
そこには、 たった一言だけ書かれていた。
「逃げるな」
アリヤの筆跡ではない。
影影のものでもない。
もっと人間的で、 しかし“人間ではない何か”の気配が混ざっていた。
アルダシールは紙片を握りつぶした。
──アリヤが危ない。
その瞬間、 背後で衣擦れの音がした。
振り返ると、 黒衣の密偵が立っていた。
顔の半分を覆い、 目だけが異様に光っている。
「異国の戦士よ。
昨夜、宮殿の水路で“動き”があった。
お前は何を知っている」
アルダシールは答えなかった。
密偵は一歩近づいた。
「アリヤ殿は皇帝の御心に関わる。
勝手な行動は許されぬ。
彼女は宮殿から出られぬ」
アルダシールは低く言った。
「お前たちこそ、
何を恐れている」
密偵の目が揺れた。
「……影が動いている。
宮殿の奥で“何か”が目覚めた。
我らにも制御できぬ。
だから──
アリヤ殿を外へ出すわけにはいかぬ」
その声には、
人間の焦りと、
影の主の“命令”が混ざっていた。
アルダシールが剣に手をかけた瞬間、 回廊の奥で別の気配が立ち上がった。
生きた人間の気配。
だが、影影とは違う。
異国の衣をまといながら、 唐の宮廷に溶け込むような歩き方。
安倍晴明の随行者だった。
男はアルダシールを一瞥し、
静かに言った。
「あなたは、
アリヤ殿と共に動くつもりだな」
アルダシールは答えなかった。
男は続けた。
「影の主は、
宮殿そのものを“器”にしようとしている。
廊下の曲がり角、扉の開閉、
女官たちの動き──
すべてが“別の意図”に並べ替えられている」
密偵が叫んだ。
「黙れ!
異国の術者め──」
男は密偵を見ずに言った。
「あなたたち宮廷は、
すでに“内側”を掌握されている。
気づいていないのは、
あなたたちだけだ」
密偵の顔が青ざめた。
アルダシールは言った。
「アリヤはどこだ」
男は短く答えた。
「水路へ向かった。
だが──
影影が先に動いた」
アルダシールの胸が冷えた。
「間に合うのか」
男は首を振った。
「間に合わせるしかない。
あなたが行かなければ、
アリヤ殿は“内側”に引きずり込まれる」
アルダシールは走り出した。
回廊を抜け、 庭を越え、 池の縁へ向かう。
水面が、 風もないのに荒れていた。
水底から、
黒い“手”のような影が伸びている。
アリヤの姿は見えない。
アルダシールは池に飛び込んだ。
冷たい水が身体を包む。
耳の奥で、 低い声が響いた。
──来るな。
──これは“器”のものだ。
──お前は関係ない。
アルダシールは水をかき分けた。
水底で、アリヤが影に絡め取られていた。
瞳が揺れ、唇が震え、心の奥に“別の声”が入り込もうとしている。
アルダシールは彼女の腕を掴んだ。
「アリヤ!」
アリヤの瞳が、一瞬だけ“彼女自身の光”を取り戻した。
「……来ないで……
あなたまで……
影に……」
アルダシールは言った。
「もう遅い。
俺は“見られた”。
なら──
お前を連れて行く」
影が二人を包もうとした瞬間、水底の奥で“何か”が裂けた。
宮殿のどこかで、再び扉が閉じる音がした。
だが今度は──
外側から閉じられた音だった




