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ハプロB51 鬼と狐  作者: 秋津ネオ
8/12

反転前夜

夜の長安は、静かに燃えていた。

昼の熱が石畳に残り、白壁の内側には、冷めきらない熱と、言葉にならないざわめきが滲んでいた。

 だが、そのざわめきは人の声ではなかった。


 アルダシールは、北の回廊の影に身を潜めていた。

 見張りの交代の刻限は、すでに頭に入っている。

 この半年で、宮殿の“呼吸のリズム”は、ほとんど身体に染み込んでいた。


 今夜だけ、その呼吸がわずかに乱れている。


 影影が、アリヤの内側に足を踏み入れた──

 あの瞬間から、宮殿全体の“拍”が半分だけずれていた。


 遠くで、鐘の音がひとつ、遅れて響いた。


 足音が近づく。

 女官たちのものではない。

 甲冑の擦れる、重い音。


 アルダシールは柱の陰から身をずらし、通り過ぎる兵の列をやり過ごした。

 彼らの目は、妙に空ろだった。

 命令だけをなぞる、空の器のような歩き方。


 その列の最後尾に、一瞬だけ“濃い影”が混ざった。

 人の形をしているのに、輪郭だけが曖昧な影。


 アルダシールの背筋に、冷たいものが走った。


 影影は、もう“宮殿の外側”ではなく、

 完全に“内側”に入り込んでいる。


 庭の奥へ向かう。


 そこには、灯りを落とした東屋があった。

 昼間は楽器の音が響く場所だが、今は水の音だけが聞こえる。


 アリヤは、そこにいた。


 欄干にもたれ、池の水面を見つめている。

 その横顔は、昼間よりも静かで、

 しかし、どこか“遠い”。


「……来たのね」


 振り向かずに、アリヤが言った。


「お前のほうが、先に気づいていたんだろう」


 アルダシールが近づくと、

 水面に映る二人の影が、わずかに重なった。


「昼間からずっと……

 宮殿の“考え方”が変わっているの」


「考え方?」


「ええ。

 廊下の曲がり角、扉の開く順番、

 女官たちの動き……

 全部、少しずつ“別の意図”に合わせて並べ替えられている。


 まるで、誰かが上から、

 宮殿そのものの“思考”を書き換えているみたい」


 アルダシールは眉をひそめた。


「影の主か」


「たぶん」


 アリヤは、指先で欄干をなぞった。


「影影はね……

 ただの眷属じゃないの。

 “書き換えの手”でもあるの。


 人の心も、

 宮殿の流れも、

 少しずつ、少しずつ、

 影の主に都合のいい形に変えていく」


 アルダシールは、池の向こうの闇を見た。


「なら、急がないといけないな」


「ええ」


 アリヤは、ようやく彼のほうを向いた。


「長安を出る。

 それしかない」


 その言葉は、

 決意というより、

 “諦めの先に残った唯一の選択”のように聞こえた。


「出られるのか」


「本来なら、無理ね。

 私は“唐の宮廷に縛られた駒”だから。


 でも──」


 アリヤは、胸の前で組んでいた手をほどいた。


「影の主は、今、

 “私の内側”に集中している。


 私を完全に書き換えるまでは、

 外側の鎖は、少しだけ緩む」


「……お前を壊すことに夢中になっている間に、

 外の鍵が甘くなる、ということか」


「そういうこと」


 アリヤは、かすかに笑った。


「だから、今夜しかない」


 アルダシールは頷いた。


「城門は?」


「正面は無理。

 でも、

 “人が通るための門”だけが門じゃないわ」


 アリヤは、池の水面を指さした。


「この水は、

 城外の川と繋がっている。


 表向きは“風流な水路”だけれど、

 もともとは、

 非常時に皇族を逃がすための“抜け道”でもあるの」


「知っていて、黙っていたのか」


「言えば、

 あなたが一人で行こうとするでしょう?」


 アルダシールは言葉を失った。


 アリヤは続けた。


「私は、

 影の主に“選ばれた駒”としてここに来た。


 でも、

 あなたと話すようになってから、

 自分の心が、

 少しずつ“私のもの”に戻ってきた。


 だから──

 今度は、私が“自分で選ぶ”。


 どこへ行くか、

 誰と行くか」


 池の水面が、

 風もないのに、わずかに震えた。


 アルダシールは、その揺れの奥に、

 “見えない何かの抵抗”を感じた。


「影影が、

 もう気づいている」


 アリヤが低く言った。


「私が“ここから離れようとしている”ことに」


「間に合うのか」


「間に合わせるの」


 アリヤは立ち上がった。


 その足取りは、

 震えているようでいて、

 どこか静かに定まっていた。


「あなたは、

 水路の出口で待っていて」


「なぜだ」


「影影は、

 “私の内側”に集中している。


 だから、

 私が先に行く。


 あなたまで一緒にいたら、

 影の主は、

 あなたを“本当の敵”として認識する」


 アルダシールは首を振った。


「もう、認識されている」


 アリヤが目を見開いた。


「さっき、

 お前の心に影が踏み込んだ時──

 俺の背後で“視線”が立ち上がった。


 影影は、

 もう俺を見ていた」


 短い沈黙が落ちた。


 アリヤは、

 その沈黙の中で、

 何かを決めたように息を吐いた。


「……なら、

 もう隠れる意味はないわね」


 池の水面が、

 今度ははっきりと波打った。


 水の底から、

 “別の影”がゆっくりと浮かび上がろうとしていた。


「急がないと」


 アリヤは、

 裾をからげ、

 池の縁に片足をかけた。


 その瞬間──


 宮殿のどこかで、

 ひとつの扉が、内側から静かに閉じられた。


 まだ、誰もその音の意味を知らない。


 


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