沈む気配の向こう側
長安の夏は、湿り気を帯びていた。
白壁は陽に照らされて眩しく、
庭の池には蓮が静かに開き始めていた。
だが、その美しさとは裏腹に、
宮廷の空気には、言葉にできない“重さ”があった。
アルダシールは護衛としての任務を続けていた。
長安に来て半年が過ぎ、
彼はようやく宮廷の複雑な気配を読み取れるようになっていた。
権力の争い。
嫉妬。
陰謀。
そして──
“見えない何か”の圧。
その圧は、
アリヤの周囲で特に濃かった。
ある日、
庭でアリヤと会った。
彼女は琴を弾いていたが、
その音はどこか揺らいでいた。
「……何かあったのか」
アルダシールが問うと、
アリヤは手を止め、静かに首を振った。
「何も……
でも、最近……
光の中でも、影が落ち着かないの」
「影が?」
「ええ。
揺れるというより……
“寄ってくる”の」
アルダシールは眉を寄せた。
彼には何も見えない。
だが、アリヤの声は確かに震えていた。
「怖いのか」
「怖い……
でも、それだけじゃないの。
影が……
私を“測っている”気がするの」
アルダシールは彼女の手を取った。
その手は冷たかった。
「俺がいる」
アリヤは微笑んだ。
その微笑みは、
胸の奥に閉じ込めていた光が
ほんの少しだけ漏れたような笑顔だった。
「……あなたがいると、
影が少しだけ遠ざかる気がするの」
アルダシールの胸が熱くなった。
その時だった。
庭の奥で、
“空気が押し返されるような圧”が走った。
風ではない。
音でもない。
影の揺れでもない。
ただ、
空間そのものが、わずかに歪んだ。
アリヤは息を呑んだ。
「……来た」
アルダシールは剣に手を伸ばした。
しかし、何も姿を見せない。
ただ、空気の密度だけが変わった。
「今日は……
襲うつもりじゃなかったみたい。
ただ……
私がどこにいるか、
誰といるか……
確かめに来ただけ」
アルダシールは低く言った。
「影影……か」
アリヤは頷いた。
「ええ。
影の主の眷属。
私を監視するための存在」
アルダシールは拳を握った。
「なぜお前を監視する」
アリヤは視線を落とした。
「……私は、
影の主に“選ばれた”の。
唐の宮廷に潜り込み、
人々を惑わせ、
影の主のために働くために」
アルダシールは息を呑んだ。
アリヤは続けた。
「でも……
あなたと話すようになってから……
私は……
影の主の命令に従えなくなってきた」
「従わなくていい」
アリヤは首を振った。
「従わなければ……
影影が私を喰うわ。
魂ごと」
アルダシールは彼女の肩を掴んだ。
「俺が守る」
アリヤは震えながら微笑んだ。
「……あなたは、
どうしてそんなことを言えるの……?」
アルダシールは答えられなかった。
ただ、
彼女を守りたいという気持ちだけが
胸の奥で静かに燃えていた。
その時だった。
庭の向こうから、
地面を押し潰すような“重い足音” が近づいてきた。
アリヤの顔が強張った。
「……来たわ」
アルダシールが振り返ると、
そこに立っていたのは巨大な男だった。
太い腕。
丸太のような胴。
異様な存在感。
安禄山だった。
アリヤは小さく震えた。
「……あの人も……
影の主に触れられている」
安禄山はアルダシールを見下ろし、
低く、地を這うような声で言った。
「異国の戦士よ。
宮廷の奥に近づきすぎるな。
ここは……
お前の居場所ではない」
アルダシールは一歩も引かなかった。
安禄山は笑った。
その笑いは、人間のものではなかった。
「狐の娘に近づくな。
影が……
お前を喰うぞ」
アリヤは息を呑んだ。
アルダシールは剣に手を伸ばした。
しかし安禄山は背を向け、
ゆっくりと去っていった。
アリヤは震える声で言った。
「……あの人は……
影の主に“汚染”されている。
だから……
私を監視しているの」
アルダシールは言った。
「なら……
俺が守る」
アリヤは首を振った。
「違うの……
あなたが私を守れば守るほど……
影影は強くなる。
影の主は……
あなたを“敵”と見なす」
アルダシールは言った。
「構わない」
アリヤは涙をこぼした。
「……あなたは……
どうして……
そんなふうに言えるの……?」
アルダシールは答えた。
「お前が……
泣いているからだ」
アリヤは目を閉じた。
その瞳から、静かに涙が落ちた。
二人の距離は、
確実に近づいていた。
しかし──
その夜、宮殿のどこかで“圧”がひとつ、深く沈んだ。
まるで、何かが静かに位置を変えたように。




