春の空気が沈むとき
長安の春は、静かに訪れた。
冬の冷たい風が和らぎ、庭の梅がほころび始め、
宮殿の回廊には淡い香りが漂っていた。
アルダシールは宮殿の護衛としての任務を続けていた。
長安に来てから数ヶ月が経ち、
街の喧騒にも、宮廷の静けさにも慣れ始めていた。
しかし、
彼の心にはひとつだけ、慣れないものがあった。
アリヤの存在だった。
彼女と初めて出会ったあの日から、
アルダシールは何度も彼女と“偶然”出会った。
庭で。
回廊で。
池のほとりで。
宮殿の門の前で。
アリヤはいつも静かに微笑んだ。
その微笑みは、宮廷で見せる作り物の笑顔ではなく、
ほんの少しだけ心を開いた笑顔だった。
ある日、
アリヤは池のほとりで琴を弾いていた。
アルダシールが近づくと、
彼女は手を止め、静かに言った。
「あなたが来ると……音が変わるの。
落ち着く音になるの。不思議ね」
アルダシールは答えられなかった。
ただ、アリヤの声が柔らかくなるのを感じた。
アリヤは続けた。
「宮廷ではね、誰も本当の声で話さないの。
皆、誰かの顔色を見て、誰かの影を恐れて……
だから、あなたと話すと……自分の声が戻ってくる気がするの」
アルダシールはその言葉を胸に刻んだ。
別の日、
アリヤは回廊の柱に寄りかかり、空を見上げていた。
「長安の空って……広いようで、狭いのね」
「狭い?」
「ええ。どこへ行っても、誰かの目がある。
誰かの思惑がある。
空まで、誰かに囲われているみたい」
アルダシールは言った。
「俺には……空は広く見える」
アリヤは微笑んだ。
「あなたは自由だからよ。私とは違う」
「俺も自由じゃない。故郷を失った。帰る場所もない」
アリヤは彼を見つめた。
「……帰る場所がないのは、自由とは違うわ。
でも……あなたの歩く道は、あなたが選べる道よ」
アルダシールは言葉を失った。
そんなふうに言ってくれた者はいなかった。
アリヤは続けた。
「私は……選べないの。
どこへ行くかも、誰と話すかも、何をするかも。
全部、決められている」
アルダシールは拳を握った。
「……辛いのか」
アリヤは少しだけ笑った。
その笑顔は、涙を隠すための笑顔だった。
「辛いなんて言えないわ。
言ったら……壊れてしまいそうだから」
アルダシールは言った。
「壊れそうなら……俺が支える」
アリヤは驚いたように目を見開いた。
そして、ゆっくりと視線を落とした。
「……そんなこと言われたの、初めて」
その声は震えていた。
しかし、その震えは恐怖ではなく、
心が動いた証だった。
その頃からだった。
宮殿の空気が、
時折“沈む”ように感じられた。
風ではない。
光でもない。
影でもない。
ただ、
何かが“そこにいる”気配だけが、
ほんの一瞬だけ空気を重くした。
アリヤは気づいていた。
それが自分を監視する“何か”であることを。
しかし、
アルダシールにはまだ見えなかった。
ある日、
アリヤは言った。
「あなたと話す時間が……私の一日の中でいちばん好き」
アルダシールは胸が熱くなった。
その言葉は、戦場で浴びたどんな炎よりも強く、
彼の心を揺らした。
二人の距離は確実に近づいていた。
しかし、
その“何か”もまた、確実に近づいていた。
その日の夕暮れ、
回廊を歩くアルダシールの耳に、
ふいに“音のない音”が触れた。
風ではない。
人の気配でもない。
ただ、
空気のどこかが、
ひとつだけ“沈んだ”。
アルダシールは立ち止まった。
胸の奥で、言葉にならない何かが静かに動いた。
その変化が何を告げているのか、
まだ分からない。
ただ──
世界のどこかで、ひとつの糸が引かれた気がした。




