庭に落ちた琴の音
長安の空は広く、どこまでも澄んでいた。
西域の荒野とは違い、風は柔らかく、街には香の匂いが漂っていた。
市場には絹が揺れ、楽師の音が響き、人々の声が絶えなかった。
ここは世界の中心。
唐の都、長安。
アルダシールはその喧騒の中に立っていた。
異国の巨漢は、街の人々の視線を集めたが、彼は気にしなかった。
西域の戦場に比べれば、長安の喧騒など静かなものだった。
高仙芝の推薦により、
アルダシールは宮廷の護衛として働くことになった。
宮殿の門を守り、皇帝の行列を護り、
時には宮中の儀式にも立ち会った。
だが、彼は孤独だった。
言葉も文化も違う。
自分の居場所がどこにあるのか分からなかった。
そんなある日、
宮殿の奥から、静かな音が聞こえてきた。
琴の音だった。
柔らかく、澄んでいて、
水面に落ちる光のような音。
アルダシールは思わず足を止めた。
その音は、彼の胸の奥に触れた。
戦場の喧騒でも、故郷の炎でも感じたことのない感覚だった。
音のする方へ目を向けると、
庭の奥にひとりの女がいた。
白い衣。
黒い髪。
細い指が琴の弦を撫で、
そのたびに音が空へ溶けていく。
彼女は美しかった。
ただ美しいだけではない。
どこか儚く、どこか遠く、
触れれば消えてしまいそうな存在だった。
アルダシールは息を呑んだ。
その女こそ、
楊玉環。
唐の皇帝に寵愛される絶世の美女。
しかし、彼女の本当の名はアリヤ。
西域の狐族の娘であり、
影の主アフラダルクに縛られた存在だった。
アリヤは琴を弾きながら、ふと顔を上げた。
その瞬間、
二人の視線が交わった。
アリヤは驚いたように目を見開いた。
アルダシールの黒い瞳は、
彼女がこれまで見たどんな人間とも違っていた。
深く、静かで、
炎のように揺らがない。
アリヤは胸の奥が熱くなるのを感じた。
こんな感情は初めてだった。
影に怯え、
誰にも触れられず、
誰にも触れられないはずの自分が、
なぜこの男に惹かれるのか分からなかった。
アルダシールもまた、
心の奥で何かが動いた。
亡国の戦士である自分には、
もう何も残っていないと思っていた。
だが、この女を見た瞬間、
失われたはずの何かが静かに息を吹き返した。
アリヤは琴を止め、静かに言った。
「……あなた、どこの方」
「ペルシャだ」
アリヤの瞳が揺れた。
その名を知っていた。
滅びた帝国。
影の主が“利用価値なし”と切り捨てた国。
「遠いところから……来たのね」
「そうだ。
気づけば、ここにいた」
アリヤは微笑んだ。
その微笑みは、宮廷で見せる作り物の笑顔ではなかった。
自然で、柔らかく、どこか寂しげだった。
アルダシールは胸が締めつけられた。
この女は、笑うことを許されていないのだと感じた。
アリヤは言った。
「あなたの目……
とても静かね。
戦場の人の目じゃない」
「戦場しか知らない男だ」
「いいえ。
あなたの目は……
誰かを守る人の目をしている」
アルダシールは言葉を失った。
そんなことを言われたのは初めてだった。
アリヤは立ち上がり、庭の奥へ歩き出した。
しかし、数歩進んだところで振り返った。
「また……来てくれる」
アルダシールは答えた。
「来る」
アリヤは微笑んだ。
その笑顔は、
彼女の心の奥に閉じ込められていた光が
ほんの少しだけ漏れたような笑顔だった。
その瞬間、
二人の運命は静かに結ばれた。
アルダシールは知らなかった。
アリヤが影の主に縛られ、
逃げることも、愛することも許されない存在であることを。
アリヤも知らなかった。
アルダシールが影に触れられない唯一の人間であることを。
ただ、
二人の間に生まれた“静かな気配”だけが、
確かにそこにあった。




