恵みの水で拓く新たな田畑と、涙に濡れる人吉の別れを越えて、約束の北東へ旅立つ
激しく流れる豊かな水が、死にかけていた盆地の土を劇的に変えていった。
大岩が砕け散ってから数日が過ぎても、アルダシールたちの一家は人吉の隠れ里に留まっていた。ヤマトの追っ手から逃れる旅の途中ではあったが、飢えと渇きに苦しんでいた民たちをそのまま置いて立ち去るには、あまりにも後ろ髪を引かれたからだ。
「よし、この根っこも引き抜くぞ」
アルダシールは腰を落とし、地面から深く根を張った巨大な切り株に両手をかけた。
男たちが十人がかりで大綱を引いてもびくともしなかった代物だ。大男が背筋に力を込めると、みしみしと不気味な音が周囲に響き渡った。
「ふんっ」
短い呼気とともにアルダシールが腕を振り上げると、大地を割って、巨大な切り株が根こそぎ宙に浮き上がった。そのまま泥を払いながら脇へと放り投げる。
「おお、相変わらず凄まじい怪力だ。おかげで、一か月はかかるはずだった荒れ地の開墾が、たったの数日で終わってしまった」
鍬を持った里の男たちが、目を丸くして歓声を上げた。
「ただ力任せに引いたわけではない。根の張る方向を見極めて、力の支点をずらしただけだ」
アルダシールは額の汗を拭いながら、静かに微笑んだ。かつて宮廷を守護する戦士として培った力の制御は、今やこの異国の山奥で、田畑を拓くための最も確実な道具となっていた。
その日の夜、ささやかな茅葺き小屋の中で、メイファはアルダシールの大きく分厚い手を、濡らした布で甲斐甲斐しく拭いていた。
「あなた、すっかり農夫の手になったわね。泥まみれで、少し荒れて、でも、とっても温かいわ」
メイファは慈しむような目でその掌を見つめた。
「戦うためではなく、誰かを生かすために力を振るうのは、悪くないものだな」
「ええ。戦いの中にいたあなたが、こうして土に触れて笑っている。それだけで、私はこの旅についてきて良かったと思えるの。いつか、あの巫女様が言っていた幣立の地に辿り着いたら、毎日をこうして過ごしましょうね。にぎやかで、温かい、私たちの本当の家を作るのよ」
最愛の妻の言葉に、アルダシールは胸の奥が熱くなるのを感じ、その細い肩を優しく抱き寄せた。
里での滞在は数か月に及んだ。
拓かれた田畑には青々とした作物が実り、里には奇跡のような最初の収穫の時期が訪れていた。水路から引かれた瑞々しい水は、黄金色の稲穂を育て上げ、民たちの顔からは完全に絶望の影が消え去っていた。
その豊かな実りの中で、八歳のアルスもまた、大きな成長を遂げていた。
「アルス兄ちゃん、こっちの川に大きい魚がいるよ」
「よし、僕に任せて。みんなは後ろに下がっていて」
アルスは里の子供たちの先頭に立ち、泥だらけになって水路を駆け回っていた。最初は異国の容姿をした少年に怯えていた地元の子供たちだったが、今では誰もがアルスを最強の兄貴分として慕い、影のように後ろをついて回っている。
魚を素手で捕まえては歓声を上げる我が子の姿を、アルダシールは遠くから見守っていた。ただ強いだけでなく、持てる力で仲間を守り、笑顔をもたらす。地底世界でレプティリアンたちから学んだ知恵と、この里での経験が、少年の心に確かな優しさの根を張らせていた。
しかし、幸せな時間には必ず終わりが来る。
これ以上この場所に留まれば、自分たちを執拗に追うヤマトの追っ手が、この隠れ里の存在に気づいてしまう可能性が高かった。里の命を救ったはずの自分たちが、今度は里を滅ぼす引き金になりかねない。
「明日、ここを発つ」
収穫祭の熱気が冷めやらぬ夜、アルダシールは里の長に静かに告げた。
「そんな、お前様たち、もう行ってしまうのですか。ここなら、誰も追ってきはしません。どうかずっと、私たちの守り神として、この里で暮らしてください」
長は狼狽し、何度も首を振った。
「俺たちがここに留まれば、いずれ大きな災いがこの里を襲う。それは俺たちの本意ではない。民の笑顔を見られただけで、十分だ」
アルダシールの決意が揺らがないことを見抜いた長は、深く頭を垂れ、目から大粒の涙をこぼした。
「アルス兄ちゃん、本当に行っちゃうの」
「ずっと一緒に遊べるって思ったのに」
翌朝、旅支度を整えた一行の前に、里の子供たちが涙を浮かべて立ち塞がった。中にはアルスの服の裾を掴んで離さない子供もいた。
アルスは寂しさに胸を締め付けられそうになりながらも、ぐっと涙を堪え、子供たちの前に視線を合わせた。
「みんな、泣かないで。僕には、どうしても行かなきゃいけない場所があるんだ。でも、ここでみんなと泥だらけになって遊んだこと、絶対に忘れない。僕が教えた魚の捕り方、次の小さな子たちにも教えてあげてね」
八歳の少年とは思えないほど毅然としたその言葉に、子供たちは涙を拭いながら頷いた。アルスは自らの寂しさを乗り越え、人の上に立つ者としての精神的な強さを、この別れの中で確かに獲得していた。
「お前様、これを持って旅立ってください」
長が、古びた鹿の皮に描かれた一枚の山地図をアルダシールに託した。
「これは、ヤマトの役人どもが決して知らない、九州山地の隠された獣道です。ここからまずは、険しい尾根を北へと登りなさい。肥後の国を横目に北上し、やがて阿蘇と高千穂の狭間にある分水嶺を、日の昇る東の方角へと折れるのです。その先に、巫女様の言っていた幣立の地があります」
「ありがたく使わせてもらう」
アルダシールは地図を懐に深く収め、長の手を強く握りしめた。
朝霧が深く立ち込める中、三人は里の人々の割れんばかりの見送りの声に包まれながら、一歩を踏み出した。
「あなた、行きましょう」
「うん、パパ、ママ。僕、もっと強くなるよ」
メイファとアルスが、アルダシールの左右の手をしっかりと握る。
振り返ることはしなかった。ただひたすらに、約束の聖地が待つ北東の険しい山脈を見据え、親子三人は霧の向こうへとその姿を消していくのだった。




