霧深き盆地の隠れ里で絶望する民と出会う
深い霧が、すべてを呑み込んでいた。
人吉の盆地へと降り立った一行を包んだのは、衣服をじっとりと濡らす冷たい川霧だった。四方を高い山々に囲まれたこの平原は、まるで巨大な器の底のようで、日の光すら容易には届かない。湿った泥の匂いと立ち込める霧のせいで、数歩先を歩く者の背中すら見失いそうになるほどだった。
アルダシールはアルスの手をしっかりと握り、慎重に歩みを進めていた。
「パパ、なんだか変な匂いがするよ。お水があるのに、土が乾いて死んでいるみたいな匂いだ」
鼻をひくつかせながら、アルスが不思議そうに言った。
「ああ。水が流れる音が聞こえないな。これほど深い霧に包まれていながら、川の流れる生きた音がまるでない」
アルダシールは周囲の気配を探りながら頷いた。
霧の奥から、木々が擦れ合う音とは異なる、かすかな乾いた摩擦音が聞こえてきた。人間の生活の気配だった。しかし、そこには活気というものがまるでなく、ただ重苦しい沈黙だけが漂っている。
さらに歩みを進めると、霧の幕の向こうから、粗末な茅葺きの家々が不気味に姿を現した。山間に身を寄せ合うようにして作られた、ハヤトの民の小さな隠れ里だった。
里の様子は異様だった。畑の土は白く乾き、植えられたばかりの作物はすべて茶色く立ち枯れて頭を垂れている。家々の軒先に吊るされた籠はどれも空で、村の中心にある共同の井戸には、乾ききった泥がこびりついているだけだった。
広場には、十数人の里の民が集まっていた。だが、彼らは旅人の姿を見ても、武器を取って警戒する気力すら残っていないようだった。老人や幼い子供たちが、力なく地面にへたり込み、ただ虚ろな目で宙を見つめている。子供たちの唇は白くひび割れ、飢えと渇きのために、泣くことすら忘れたように静まり返っていた。
アルダシールは無言でその光景を睨みつけた。
宮廷の冷徹な政治の影で、権力者たちが平然と切り捨てていく持たざる者たちの姿が、この極東の山奥の光景と重なって見える。飢えとは無縁の高貴な世界に身を置きながらも、その不条理を嫌というほど見てきた男だからこそ、この容赦のない見捨てられ方に、戦士としての静かな義憤が湧き上がる。大男の強靭な拳が、無意識のうちにみしりと音を立てて握り締められた。
「旅の方、ここには何もありませんよ」
地面に座り込んでいた一人の老人が、掠れた声でぽつりと言った。この里の長らしきその男は、アルダシールの巨躯を見上げても、怯えることすらなく静かに首を振った。
「余所者に分ける水も、食べ物も、ここには一滴も残っていません。どうかそのまま、この不吉な里を通り過ぎてください」
「水が一滴もないとは、どういうことだ。この山に囲まれた盆地なら、いたるところに豊かな源流があるはずだろう」
アルダシールが尋ねると、長は深く、重いため息を吐いた。
「ほんの十数日前までは、そうでした。この里の背後にある険しい渓谷から、冷たくて美味い水が、年中枯れることなく水路を伝って流れ込んでいたのです。しかし、先日の激しい大雨の夜に、山が裂けました」
長は震える指先で、里の奥にそびえる険しい崖の方を指差した。
「凄まじい地響きとともに山崩れが発生し、信じられないほどの巨大な大岩が、水路の源流部へすっぽりとはまり込んでしまったのです。岩があまりにも大きすぎました。私たちの手にある粗末な道具では、削ることも、動かすこともできません。水路は完全に堰き止められ、命の水はすべて隣の谷へと逃げていってしまいました」
「道具が通じない大岩か」
「はい。あれは人間の力でどうにかできるものではありません。水が来なければ、畑は全滅です。このままでは、冬を迎える前に、里の者全員が干からびて死ぬのを待つだけです。神も仏も、私たちを見捨てたのです」
長はそう言うと、力なく地面に突っ伏した。周囲の民からも、諦めと絶望が混じった、小さなむせび泣きが漏れ聞こえてくる。
アルダシールが黙ってその話を聞いていると、服の裾をぎゅっと引っ張る感触があった。
「パパ」
見上げると、アルスが大きな瞳に強い光を宿して、父親を見つめていた。
「僕たち、あのお水を通してあげようよ。あそこにいる小さな子たち、みんなお腹が空いて、喉が渇いて泣きそうなのを我慢しているよ。僕、あの子たちにお水をいっぱい飲ませてあげたいな」
少年の言葉は、純粋で、濁りのない優しさに満ちていた。
アルダシールは我が子の頭に大きな手を置き、その温もりを確かめた。この過酷な旅の中でも、息子は誰に教わるともなく、他者を救うための強さを身につけようとしている。
「あなた」
後ろに立っていたメイファが、静かに一歩前に出た。その表情には、夫の決意をすべて察した上での、温かい信頼の笑みが浮かんでいた。
「私たちは、ただ逃げ回るためだけに、この頑丈な身体を授かったわけではないはずよ。たまには、誰かの涙を止めるために、その大きな腕を使ってみるのも悪くないんじゃない?」
メイファの言葉が、アルダシールの背中を力強く押した。
そうだ。極孤星の呪いがどれほど不吉なものであろうとも、目の前で死を待つ人々を見過ごしていい理由にはならない。今、自分たちが持っている力は、このか弱き人々を救うためにあるのだ。
「長よ。案内してくれ」
アルダシールは静かに、しかし里全体に響き渡るような力強い声で言った。
「その、水路を塞いでいるという大岩の場所へ、私たちを連れていってほしい。その水を、再びこの里へ戻してみせる」
突っ伏していた長が、弾かれたように顔を上げた。絶望に沈んでいた民たちも、一斉に目を見張り、信じられないものを見るかのように、この旅の一家を見つめた。
「お前様たち、本気ですか。あの大岩は、大人が百人集まってもびくともしなかった代物ですよ」
「やってみなければ分からない。アルス、行くぞ」
「うん、パパ!」
アルスが元気よく返事をした。
白い霧が立ち込める静寂の里に、初めて、かすかな希望の光が差し込み始めていた。絶望に沈んでいたハヤトの民たちは、半信半疑ながらも、力強い足取りで歩き出した親子三人の後ろ姿を、祈るような目で見送るのだった。




