恋焦がれる人の髪を見つけた父親が己の不吉な宿命の星に怯えてる
「わあ、すっごく静かになったね」
八歳のアルスが、誰もいなくなった山頂を見回してぽつりと言った。
さっきまで声を張り上げていたヤマトの兵や、白い衣服をまとった祈祷師たちは、一人残らず山の斜面を転げ落ちるようにして逃げ去っている。地面には、彼らが慌てて放り出していった槍や大鎧の兜がいくつも転がっていた。中には、逃げる際に脱げたと思われる泥まみれの草鞋や、恐怖のあまり中身をぶちまけた水筒の革袋が、歪な形で岩肌にへばりついている。
「当然よ。あんな力を見せつけられたら、誰だって命惜しさに逃げ出すわ。それにしてもアルス、さっきはよくやったわね」
メイファが短剣の刃についた鉄の脂を布できれいに拭き取りながら、息子の頭を軽く小突いた。
「へへ、ママに怒られたから、急いで隠さなきゃって思ったんだ。でも、もう誰もあの棒きれに悪戯できないよ」
アルスは自分が岩盤の奥深くへねじ込んだ鉾の根元を指差した。
少年が全力で叩き込んだ一撃により、黒い岩盤には蜘蛛の巣のような巨大な裂け目が走っている。その亀裂の隙間からは、大地の底で煮え返る熱気が陽炎となってゆらゆらと立ち上り、周囲の焦げ付いた空気をさらに歪ませていた。
アルダシールはその場所へゆっくりと歩み寄った。大岩そのものと完全に一体化してしまった歪な鉄の塊を眺めていたが、ある一点に視線が吸い寄せられた。
男の身体が、一瞬で硬直する。
粉々に砕けた岩の角、激しい風にさらされながらも、奇跡的に引っかかっていたものがあった。それは、火山灰の混じる突風を浴びて妖しく輝く、一筋の美しい銀色の髪だった。
「銀華」
アルダシールは震える指先で、その一筋を壊れ物を扱うようにそっと拾い上げた。
手のひらの上で揺れる銀色は、間違いなく彼が狂おしいほどに恋焦がれ、その影を追い求め続けてきたあの人のものだった。あのヤマトの軍勢をあざ笑うように山頂を駆け抜け、この鉾を踏み台にして北へ跳んでいった彼女の確かな温度が、今もそこに残っているような気がした。
胸の奥が、焼き尽くされるような熱い思慕で一杯になる。
やはり、お前は俺の前を走っている。どこまでも、どこまでも。
しかし、その愛おしさが極限に達した瞬間、アルダシールの脳髄の奥で、不気味な黒い冷気がじわりと広がった。
くっ、と額を押さえ、アルダシールは小さく呻いた。サツマの水で頭痛は消え去っていたはずなのに、それとは違う、魂の芯を直接凍らせるような冷たい疼きだった。
己の血脈に刻まれた、暗い宿命の記憶が呼び覚まされる。
極孤星。天空で孤高に輝く北斗の星。それは、どれほどの力を得ようとも、決して一番大切な者を守ることができずに失うという、残酷な生まれ星の影だった。
目を閉じると、鼻腔の奥にあの懐かしい雲南の土の匂いと、生々しい血の香りが蘇ってくる。
前妻アリア。目の前でなす術なく息絶えていった彼女の冷たくなった身体を抱きしめた時の、あの絶望的な無力感が、今になって牙を剥いてきたのだ。
俺はまた繰り返すのか。転生を繰り返し、何度生まれ変わっても銀華の影を探し求めるこの旅路の果てで、俺はまた、誰も守れずに終わるというのか。
アルダシールの大きな肩が、目に見えて小さく震え始める。
「アルダシール。どうしたの、そんなに暗い顔をして」
いつの間にか、メイファがすぐ横に立っていた。彼女の聡明な瞳は、夫の手のひらにある銀色の髪と、その奥にある暗い怯えを、すべて見透かしているようだった。
「いや、なんでもない。ただ、少し昔のことを思い出していただけだ」
「嘘ね。アリアのことでしょう。それとも、これから私たちに訪れるかもしれない、良くないこと?」
メイファは引き留めるようなことはせず、ただ静かに微笑んだ。その笑顔には、悲しい運命すらも最初から受け入れているような、不思議な諦念と覚悟が満ちていた。
「いいのよ、アルダシール。私はあなたの妻だもの。これから先、どんなに激しい嵐が吹いて、私たちがどうなったとしても、あなたの横にいるこの瞬間だけは本物よ。だから、そんな怯えた顔はしないで」
「メイファ、お前は」
「パパ、ママ、どうしたの。難しいお顔をして」
アルスが二人の間に割って入り、大きな瞳をくりくりと輝かせながら見上げてきた。
アルダシールは深く息を吐き出し、手のひらの銀色の髪を、胸の奥の一番安全な場所へと大切に収めた。
「何でもないよ、アルス。さあ、いつまでもこの煙の中にいるわけにはいかない。北へ向かおう。俺たちの旅は、まだまだこれからだ」
己を縛る極孤星の呪い。いくら抗っても逃れられない宿命の気配をその胸に抱えながらも、アルダシールは隣に立つ妻と息子の手を強く握り締めた。三人は黄色い煙が渦巻く霧島の頂をじっと見つめ、次なる地への覚悟を静かに固めるのだった。




