霧島山頂にてヤマトの祈祷師らが気取る陣を破り、不抜の神鉾を八歳児がひょいと引っこ抜いた挙句に深く埋め戻す
黄色い煙の向こうから、幾重にも重なる単調な擦れ声が聞こえてきた。
霧島の頂は、まるで擂鉢の縁のように抉れた灰色の岩場であった。風が吹くたびに、目の前が真っ白に遮られるほどの硫黄の息吹が吹き荒れる。その中央、ひときわ大きく突き出た黒い岩盤の周りに、白い法衣を着た大勢の男たちが、奇妙な節回しの呪文を唱えながら這いつくばっていた。
男たちの中心には、何世代もの風雨に晒されて赤黒く錆びついた、歪な形の鉾が一本、逆さに突き刺さっている。その太い柄には、何本もの注連縄がぐるぐると巻きつけられ、呪術の布が風にちぎれそうにはためいていた。
「誰だっ。穢れた足音を立てる者は!」
煙の隙間からアルダシールたちの姿を認めた瞬間、きらびやかな大鎧をまとった一人の将が、抜刀しながら叫んだ。周囲を固めていた数十人の兵たちも、一斉に腰を抜かさんばかりに跳び起き、槍の穂先を向けた。
「本当にいたぞ!阿多の里を血に染めた、大陸の赤鬼だ」
「なんと巨大な体躯か。あの得物はなんだ、大木をそのまま削り出したような大斧を持っているぞ」
兵たちの間に、またたく間に恐怖が伝染していく。甲冑の繋ぎ目がガタガタと震え、互いに擦れ合う音が虚しく響いた。
「静まれっ。狼狽えるな、ヤマトの兵どもよ!」
祈祷師の長らしき、干からびた顔の老人が立ち上がり、両腕を広げてアルダシールを睨みつけた。
「西の果てより来たりし迷い犬どもよ。この地は太古の神々が降り立ち、大国を治めるための楔として、この神聖なる不抜の鉾を遺された聖域。いかなる剛の者であっても、触れることすら許されぬ奇跡の鋼ぞ。お前たちが一歩でも近づけば、鉾に宿る大地の怒りが、その不浄な肉体を骨ごと溶かして灰にするわ!」
老人は勝ち誇ったように笑い、さらに呪文の声を張り上げた。兵たちも、神の武器の威光を後ろ盾にして、急に顔色を取り戻し、気勢を上げ始める。
アルダシールは腰の大斧から手を離し、ただ息を吐いた。サツマの水のおかげで、これほど濃い硫黄の毒を吸い込んでも、胸の奥は驚くほどに澄み切っている。
「パパ、あのおじさんたち、また僕たちのことを犬って言ったよ。それに、あの地面に刺さっている錆びた棒が、そんなにすごいのかな」
八歳のアルスが、アルダシールの大きな指を引っ張りながら、退屈そうに呟いた。
「気にするな、アルス。あやつらは、目に見えぬ怯えを隠すために、ああして大きな声を出すしかないのだ。あの棒きれに縋らねば、立っていることもできんのだろう」
「おい、お前たち、その子鬼を前に出すなっ。その小童が一睨みで人を噛み砕くという化け物か!」
将が悲鳴を上げ、槍を突き出すが、アルスはそんな大人の脅しなど耳に入らない様子で、トコトコと無造作に黒い岩盤の方へ歩き出してしまった。
「待て、近づくな! 神罰が下るぞ! 命が惜しくないのか!」
祈祷師たちが血相を変えて叫ぶなか、アルスは注連縄の結界をあっさりと跨ぎ越し、逆さの鉾の前に立った。
「なんだ、ただの錆びた古い槍じゃん。パパ、これ、本当に抜けないの?」
「抜いてみれば分かることだ、アルス」
アルダシールが腕を組んで見守るなか、アルスは小さな右手を伸ばし、注連縄が巻かれた柄の頭を無造作に掴んだ。
「よいしょ」
少年が、木の実でも拾い上げるかのように、軽い息とともに腕を持ち上げた。
ズ、ズズ、と、山頂の底から、乾いた石が擦れ合うような鈍い音が響いた。
ヤマトの朝廷が何世代にもわたって恐れ敬い、誰も動かすことすらできなかった不抜の神物が、まるで湿った土から大根を引き抜くかのように、あっけなく岩盤から引き抜かれて空中へ持ち上げられた。注連縄はぷつぷつと虚しく千切れ、地面に転がっていく。
「なっ!何ということだ!」
「神の鉾が、あの小童の手によって抜かれたぞ!」
「神罰はどこへ行った! 土地の神が、あの鬼どもに屈したというのか!」
祈祷師の長は白目を剥いてその場に卒倒し、大鎧の将は刀を地面に落としたまま、腰を抜かして四つん這いになった。兵たちは一斉に武器を放り出し、世界がひっくり返ったような大パニックに陥って、互いの頭を抱え合いながらガタガタと震え震えしている。
「ほらね、パパ! 簡単に抜けたよ。ちっとも重くないし、何の力も入ってないもん。これ、僕のおもちゃにしてもいい?」
アルスは手にした鉾をぶんぶんと乱暴に振り回し、嬉しそうに振り返った。
「こら、アルス」
だが、その背後から、冷ややかな、そして一番恐ろしい声が飛んだ。メイファが、般若のような怖い顔をして息子を睨みつけている。
「そこらへんに落ちている、出所の分からない汚い鉄くずを勝手に拾い上げるんじゃありません。泥や錆が服につくでしょう。ただでさえ旅の布が足りなくて困っているのに。早く元の場所へ戻しなさい」
「ええっ、ママ、これかっこいいのに、ダメなの?」
「ダメに決まっています。そんな重いだけの玩具を持ち歩いていたら、これからの山道で足手まといになります。早くしなさい」
母親の本気の説教を前に、どんな大軍をもねじ伏せる怪力を秘めたアルスも、完全に形無しとなって肩を落とした。
「はーい、分かったよ、ママ。じゃあ戻しておくね」
アルスは小さなため息を吐き、足元の岩盤に空いた黒い穴を見つめた。
「でもさ、また誰かがこれを見つけて、お外に出して悪戯したら、僕がまたママに怒られちゃうかもしれないよね。だから、もう二度と誰も触れないように、奥の奥まで隠しちゃうからね」
少年は無邪気に微笑むと、引き抜いた鉾を両手で逆手に握り直した。
「ふんっ!」
気合いの声とともに、アルスはその小さな身体に眠る、黒海周辺の巨人族の重厚な質量を、一気に両腕へと集中させた。
ド、という、山全体が底から爆発したかのような重低音が霧島の頂を激しく揺るがした。
アルスが力任せに鉾を突き刺し戻した瞬間、岩盤は元の穴どころか、山頂の大岩そのものが限界を超えて悲鳴を上げ、蜘蛛の巣のような巨大な亀裂が周囲へと一瞬で広がっていった。
鉾は元の位置を遥かに通り越し、柄の根元、刃のすべてが硬質の岩盤の奥深くへとギチギチに埋め込まれ、大岩そのものと一体化してしまった。大人の力はおろか、何百人の大軍が鉄の重機を持ってきても永久に引き抜くことのできない、本物の不抜の楔がそこに完成した。
その凄まじい肉体的な衝撃波と、弾け飛んだ岩石の破片が、周囲を取り囲んでいたヤマトの兵や祈祷師たちを容赦なく襲った。
「ぎゃああっ!」
「うわあ、山が裂ける、助けてくれ!」
大鎧の兵たちは、アルスの一撃が引き起こした大地の震動だけで、木の葉のように空中へ弾き飛ばされ、岩肌を何度も転がってコテンパンに悶絶した。這いつくばっていた祈祷師たちも衣服をズタズタにされながら、ただ恐怖に震え、頭を抱えて地面を転げ回る。
「ひ、ひええ〜鬼だ、本物の鬼が神の鉾を大地に封印してしまった!」
「永久に抜けない呪いをかけられたぞ! これ以上ここにいたら、山ごと握り潰される、逃げろ!」
腰を抜かした雑兵たちは、武器も大鎧の兜も放り出し、硫黄の煙の向こうへと悲鳴を上げながら我先にと逃げ惑っていった。
自分たちのあずかり知らぬところで、ヤマトの間ではまたしても最悪の風評被害が広まることになる。「霧島の神の鉾を素手で岩盤の奥へねじ込んだ怪物の話」だ。しかし、血脈の一行はそんな人間の大騒ぎなど気にも留めず、静まり返った山頂の風のなかで、次の旅路へと視線を向けるのであった。




