生命を拒む硫黄の山道に這い入り、岩陰の密偵から山頂の不抜なる鉾の託宣を奪う
足元の土が、いつの間にか湿り気を失っていた。
サツマの柔らかな木々の葉裏を抜ける風はどこへ消えたのか、鼻を突くのは、卵の腐ったような、鼻腔の奥をちりちりと刺す強烈な匂いばかりである。白く濁った煙が、生き物の血を吸い取るかのように、地面の裂け目から絶えず這い出していた。
「パパ、靴の底がなんだか熱いよ。地面が怒って息をしているみたいだね」
八歳になったアルスが、自分の足元を見つめながら言った。歩くたびに、赤黒い軽石がカラカラと軽い音を立てて転がっていく。
「山が生きている証拠だ。大陸の奥地にあった、あの乾ききった禿山とは違う。火の粉を腹に抱えた山だ、油断するなよ」
アルダシールは腰の大斧の柄を握り直し、息子の小さな手を引いた。
驚くべきことに、これほど毒々しい煙に巻かれながらも、アルダシールの足取りは少しも衰えていなかった。かつて西の果てから広州へ至る旅路では、こうした険しい山道に差し掛かるたび、脳髄の奥を太い針で突き刺されるような激痛に襲われ、地面に這いつくばって動けなくなったものである。しかし、サツマの里で浴びるように飲んだ、あの染み渡る湧き水と、新鮮な川魚の肉が、男の体から積年の穢れを洗い流したようだった。
「あなた、顔色が随分と良いわね。いつもならこういう場所では、額に青筋を立てて苦しんでいたのに」
後ろを歩くメイファが、夫の背中を見上げて小さく笑った。
「あの大陸の、泥の混じった重い水に身体が馴染みすぎていたのだろうな。ハヤトの民が暮らすあの里の水は、まるで天から授かった薬のようだった。あの冷たさが、今も私の血の中で生きているのが分かる」
「パパ、僕も全然平気! この煙はちょっと臭くて嫌だけど、足の裏から力がポコポコ湧いてくるんだ」
アルスが無邪気に己の腕をまくってみせる。八歳とはいえ、その二の腕の芯には、大人の木こりが束になっても敵わないほどの硬い塊が育ちつつあった。
「それは良かったわ。でも、調子に乗って飛び跳ねるんじゃないの。岩が崩れたら下まで真っ逆さまだからね」
メイファが息子の襟首を軽くつまんで引き戻した。その時、彼女の細い眉がぴくりと動いた。視線が、街道の先にある、黒く焼け焦げた巨岩の陰へと向けられる。
「アルダシール、いるわ。煙に紛れて、誰かがこちらの様子を覗いている」
「ああ、気づいている。サツマの兵か、それとも」
「私が行ってくる。あなたはアルスを見ていて」
メイファは言うが早いか、音もなく地面を滑るようにして煙の向こうへ消えた。
数息の後、巨岩の裏から「ひえっ」という情けない短い悲鳴が響いた。
メイファが、革の衣をまとった小柄な男の首根っこを掴み、引きずり出してきた。男は手にした粗末な弓を地面に落とし、歯をガタガタと鳴らしている。
「命だけは、命だけは助けてくだされ! 私はただの猟師です、お上に逆らう気など毛頭ございません!」
男は地面に両手を突き、泥灰のなかに頭を何度も埋め込んだ。
「ただの猟師が、なぜこんな毒の這う山道で息を潜めて旅人を狙う? お前、ヤマトの犬か」
メイファが冷ややかな声で問い詰める。
「違います! ヤマトの兵隊どもに、麓の村の家族を人質に取られたのです!『南から鬼が来たらすぐに知らせろ』と、無理やりここに座らされていただけで……」
男は涙と鼻水で顔を汚しながら、アルダシールの巨躯を見上げて、さらに腰を抜かした。
「お、お前様が、あの阿多の国を一夜で火の海にしたという、身の丈十尺の赤鬼か……。そして、そこにいるのが、ヤマトの将の肉を骨ごと噛み砕いたという、恐ろしい子鬼か……」
アルスはその言葉を聞くと、むっとしたように頬を膨らませた。
「おじさん、またそんな嘘を言ってるの? 僕、誰も噛んでないよ。お肉は火で焼いたお魚しか食べないもん!」
「ひいっ、子鬼が喋った! 呪い殺される!」
男は完全に錯乱し、地面を這い回ろうとする。アルダシールは静かに男の前にしゃがみ込み、その細い肩を大きな手でそっと抑えた。
「安心しろ。私たちは人を食う化け物ではない。お前を殺すつもりもない。ただ、この山の上の様子を知りたいだけだ。ヤマトの軍勢は、この先にどれほどいる?」
アルダシールの静かで低い声に、男は少しだけ落ち着きを取り戻したように、目を白黒させた。
「う、上の様子、ですか……。今、山頂は大変なことになっております。ヤマトの朝廷から遣わされた、白い着物を着た高貴な祈祷師の偉い様たちが、大勢の兵を従えて陣を敷いているのです」
「祈祷師だと? 奴らは山の上で何をしている」
メイファが短剣の先で男の顎を軽く突き上げた。
「阿多で将軍様を討ち取った『西の鬼武者』を呪い殺すための、大がかりな祈祷です。あの山の天辺には、太古の昔から地面に深く突き刺さったままの、歪な鉾があるのです。ヤマトの国を災いから守るための神聖な武器だそうで、人間の力では決して動かすことも、引き抜くこともできぬ不抜の神物だと聞きました」
「誰も抜けない鉾か」
アルダシールは顎をさすった。
「はい。祈祷師の様たちは、その神の鉾に太い注連縄を巻きつけ、山の地脈から恐ろしい呪いの力を引き出そうとしています。あの鉾の力を使えば、どんな大鬼であっても、近づいただけで肉が腐り、骨が溶けて灰になると威張っておりました。兵どもも、あの鉾がある限り負けるはずがないと、山頂の岩場で息巻いています。だから、お前様たち、あそこへ行けば本当に消されてしまいますだ……」
男は本気で怯え、懇願するように手を合わせた。
ヤマトの連中は、その「不抜の鉾」とやらを自らの精神の拠り所にし、異邦の者を迎え撃つ盾にしようとしている。人間の理解を超えた古い武器を神格化し、それに縋ることでしか、彼らは己の恐怖を拭い去ることができないのだろう。
「よく話してくれたな。もういい、麓へ降りて家族の元へ帰るがいい。ヤマトの兵には、霧が深くて誰も見えなかったとでも言っておけ」
アルダシールが手を離すと、男は何度も拝みながら、脱兎の如く山道を駆け下りていった。
「誰も抜けない神の武器ねえ。ヤマトの奴ら、ずいぶんと大層な玩具を頼りにしているじゃない」
メイファが山頂の煙を睨みつけながら、不敵な笑みを浮かべた。
「パパ、あのおじさんが言ってた神様の鉾って、そんなにすごいのかな。僕たちのことを、灰にしちゃうのかな」
アルスが少し不安そうに、アルダシールの服の裾を握りしめる。
「案ずるな、アルス。ヤマトの者がどれほどの呪いを編もうと、我が道を遮るものは全て、この大斧で叩き割るだけだ。あの山の向こうには、私たちを導いてくれた銀色の影が走っていった国がある。こんな煙の山で足を止めるわけにはいかない」
アルダシールは立ち上がり、遥か上空で渦巻く黄色い煙の深淵を見つめた。
行く手に待ち受けるのは、朝廷の祈祷師たちが仕掛ける不気味な罠の気配。しかし、サツマの水で新しく生まれ変わった血脈の三人は、その脅威を恐れることなく、さらなる険しさを増す霧島の火山道へと、一歩一歩、確実な足取りで登り始めるのであった。




