サツマの地を立ちて北へ向かう道中、すでに国中に広まりつつある異形のオニの噂を耳にする
「パパ、あそこにいる果物売りのおじさん、僕たちを見た途端に籠を放り出して走っていっちゃったよ。落とした木の実、拾わなくていいのかな」
八歳のアルスが街道の脇を指差しながら、不思議そうに首を傾げた。
「本当ね、アルダシール。あの茂みに隠れているハヤトの狩人たちも、さっきから私たちを遠巻きに眺めては地面に何度も額を擦りつけているわ。何だかおかしな怯え方だわ、ただの旅人なのに」
メイファが短剣の柄にそっと指先を添えながら、周囲の深い森を警戒の目で見回した。
「ああ、阿多での戦いからまだ数日しか経っていないというのに、もうここまで私たちの噂が届いているということだな。ハヤトの民の足の速さには驚かされる」
アルダシールは大きな身体を揺らしながら、火山灰の混ざる白い街道を一歩一歩と踏みしめて歩いた。サツマの地の清らかな水を飲み、瑞々しい魚を口にしてからというもの、長年彼を苦しめていたあの脳髄を引き裂くような偏頭痛は一度も起きていない。肉体は羽のように軽く、みなぎる力は以前よりも遥かに強くなっている。
「パパ、僕、サツマのお水いっぱい飲んだから、ちっとも足が疲れないよ。体がすごく軽いんだ。ねえ、もっと早く走ってもいい?」
アルスは無邪気に笑いながら、アルダシールの大きな手をギュッと握りしめた。その小さな手のひらには、すでに並のヤマトの兵を片手で消し飛ばせるほどの規格外の質量が宿っている。
「ダメよ、アルス。あまり早く走ったら、パパとママが置いていかれちゃうでしょう。それに、むやみにその力を人前で見せるんじゃないって、パパと約束したでしょう?」
「うん、分かってるよ、ママ。僕、ちゃんとおとなしく歩くよ。でもね、お水が本当に美味しくて、お腹の底から元気が湧いてくるんだもん」
「お前の言う通りだな、アルス。大陸の水は、飲むたびに体に澱みが溜まるような重さがあったが、この地の水は天の雫のように清らかだ。私の頭の奥の疼きが消えたのも、この水と食のおかげだろう。シャープールが驚くのも無理はない」
アルダシールが息子の頭を撫でながら言うと、メイファも深く頷いた。
「ええ、雲南の山奥や広州にいた頃は、体の中にいつもどす黒い塊が滞っているような重さがあったわ。でも、このサツマの水を飲み、この土地の魚を口にしていると、内側から血が清められていくのが分かるのよ。本当に不思議な土地ね」
一行がしばらく街道を進むと、大きな川の近くに、旅人や物売りが足を止めて休む寂れた荷休め所が見えてきた。木で作られた粗末な庇の下で、十数人の男たちが何やら大声で身振り手振りを交えながら話し込んでいる。
「ねぇ、ちょっとあの席の近くの草むらに隠れて、あいつらの話を聞いてみましょう。私たちのことがどう話されているか、確かめた方が良さそうだわ」
メイファの提案に、アルダシールとアルスは静かに頷き、気配を完全に消して茂みの陰へと滑り込んだ。
「本当なんだって! 俺の従兄弟が阿多の近くの港で直に見ちまったんだから間違いない。南の隠れ里に、とんでもない化け物が現れたんだ!」
日に焼けたハヤトの物売りが、怯えきった声で周囲の旅人たちに語りかけていた。
「おいおい、また大袈裟な噂話か。ヤマトの金ピカの将軍様が軍勢を引き連れて南へ向かったって話なら、俺たちも知っているがな。あの頑丈な大鎧を破れる奴なんて、この島国にはいねえよ」
別の男が地酒の入った器を傾けながら、鼻で笑った。
「その将軍様が、跡形もなく消し飛ばされたんだよ! 数千のヤマトの兵隊どもが、一瞬で全滅したって話だ!」
「何だと!? あのヤマトの連中が全滅だと? ハヤトの盾持ちが反乱でも起こしたのか?」
「違う、盾持ちの仕業じゃねえ! 西の果ての大陸から海を渡ってやってきた、身の丈十尺を超える赤オニの仕業だ!」
草むらの中で、シャープールから譲り受けた大斧を抱えたアルダシールは、思わず苦笑いを浮かべた。
「身の丈十尺の赤オニとは、随分と大きく膨らんだものだな。私はそこまで赤くもないし、デカくもないのだが」
「静かにして、アルダシール。続きが聞こえなくなるわ」
メイファが夫の脇腹を軽く突き、さらに耳を澄ませた。
「赤オニだと? そんな化け物が本当にいるわけねえだろ。お前、狐にでも化かされているんじゃないか?」
「いや、いるんだよ! その赤オニはな、ヤマトの将軍様が放った蜘蛛の化生の呪詛を、ただの息吹きだけで吹き飛ばしちまったらしい。それだけじゃねえぞ、その赤オニの横には、あらゆる呪いを吸い取る泥犬の女化け物と、一睨みで大鎧の兵を骨ごと噛み砕く、恐ろしい子オニが寄り添っていたそうだ!」
「ひええ……一睨みで骨ごと噛み砕くだと? それは人じゃない、本物の怪物の群れじゃねえか!」
聞き入っていた男たちが、一斉に首をすくめてガタガタと震え始めた。
「その子オニがな、見た目は小さな子供のくせに、将軍様の胸当てを、ただの小さな拳で突いただけで、大鎧ごと岩盤の底まで粉々に圧殺しちまったんだってよ! 将軍様は、お前たちは人ではない、オニだ、と叫んで黒い煤になっちまったそうだ。今じゃヤマトの本陣は大騒ぎさ。西から巨大な鬼の軍勢、鬼武者が攻めてきたって、皆が腰を抜かして逃げ回っている」
物売りの男は、周囲をきょろきょろと見回しながら、さらに声を潜めた。
「しかもな、そのオニ武者の一団は、阿多の這い虫どもと手を組んで、このサツマの国を乗っ取るつもりらしい。今はその足で、さらに北へ向かって歩いているそうだ。出会ったら最後、骨も残さずに喰われちまうぞ!」
「パパ……」
アルスが草むらの中で、本当に悲しそうな顔をしてアルダシールの袖を引っ張った。その瞳には涙が浮かんでいる。
「パパ、僕、ヤマトの兵隊さんを噛み砕いてないよ? 骨なんか齧ってないよぉ……。ちょっとパパたちの悪口を言ったから、謝ってもらおうとしただけなのに。なんでそんなに怖がられているの? 僕、化け物じゃないもん……」
「分かっているよ、アルス。お前は何も悪くない。パパもママも、お前が優しい子だってちゃんと知っている。ただ、ヤマトの者たちにとって、お前の放った圧倒的な重さと力は、人間の理解を超えたものだったのだ。だから彼らは、自分たちの恐怖を言い訳にするために、お前をオニという化け物に仕立て上げるしかないのだな。気にする必要はない」
アルダシールは息子の頭を優しく撫で、その涙を大きな指で拭ってやった。
「それにしても、本当に嫌な噂ね。泥犬の女化け物だなんて、私のどこが犬に見えるのかしら? 関節の隙間を少し突いただけなのに、ヤマトの連中は誇張が酷すぎるわ。今度会ったら、本当に化け物にしてやろうかしら」
メイファが不機嫌そうに唇を尖らせ、短剣を握り直した。
「まあ落ち着きなさい、メイファ。怒っても噂は消えん。しかし、これは笑い事ではないぞ。俺たちが何もしていなくとも、このオニ武者という最悪の風評被害は、私たちの行く先々に恐怖の嵐を巻き起こす。これから北へ進めば進むほど、ヤマトの朝廷は私たちを本物の脅威と見なして、さらに執拗で強力な追手を差し向けてくるだろう」
「ええ、分かっているわ。私たちはただ、あの銀色の影を追いかけているだけなのに、世界が勝手に私たちを敵に仕立て上げていくのね。でも、どんなに邪魔をされても、私は絶対に諦めないわよ」
メイファはため息を吐き、荷休め所の男たちが怯えながら解散していくのを冷ややかに見送った。
「パパ、ママ、僕、ヤマトの兵隊さんがまた来ても、パパたちには絶対に触らせないよ。僕がみんな守るから。オニって言われてもいいや、パパとママを助ける強い鬼になるもん」
アルスが健気に小さな拳を握り締めると、その細い腕に信じられないほどの密度を持った質量がみなぎるのが分かった。八歳にして異次元の力を宿すその姿は、確かに何も知らない者から見れば、恐怖の対象そのものであった。
「頼むぞ、アルス。だが、むやみに力を振るってはならん。私たちは戦うために旅をしているのではない、あの御方に、銀華に再会するために歩いているのだからな」
アルダシールは草むらから立ち上がり、衣服についた灰を払った。
一行がさらに北へと街道を進み、日が大きく傾き始めた頃、行く手の遥か彼方に、周囲の山々を圧倒するような巨大な山影が姿を現した。
その山頂からは、不気味な薄黄色い硫黄の煙が絶えず噴き出し、空を重苦しく濁らせている。
「アルダシール、あれが、サツマの民が言っていた、神の降り立つ山ね」
メイファが足を止め、その壮大な山並みを見上げた。
「ああ、あの山だ。あの荒々しい煙の向こうに、銀華が走っていったというヒゴの国がある。あの山の麓を越えねば、先へは進めぬな」
アルダシールは胸の奥から湧き上がる、切ないほどの思慕の情を感じながら、遠い山脈をじっと見つめた。
「パパ、あの山、なんだか怒っているみたいに煙を出しているね。でも、あの煙の向こうに、僕たちを助けてくれた綺麗な狐さんがいるなら、僕、ちっとも怖くないよ。早くお礼を言いたいな」
アルスが頼もしい声で言い、先頭に立って火山灰の道を歩き始めた。
自分たちの預かり知らぬところで「オニ武者」という恐怖の伝説が国中に爆発的な速さで広まり、最悪の風評被害が始まっている現実を背負いながらも、血脈の一行は、守護神の確かな名残を求めて、不気味な煙を吐き出す霧島の麓へと、力強くその一歩を進めていくのであった。




