第七十五話 遙か西の故郷と雲南の紋章が混ざり合った奇妙な石碑を前に困惑していたら、戦鬼の頭領が極上の酒を振る舞ってくれた
「信じられるか、アルダシール。この左側の削り込み、俺たちの故郷にある宮殿の柱とまったく同じ意匠だぞ」
シャープールが分厚い手のひらで石碑の表面をなぞりながら、信じられないものを見たというように声を震わせた。
「波斯の職人が刻んだとしか思えない緻密な唐草の連なりだ。なぜ東シナ海の果てにある、朝廷も近づかないような絶海の隠れ里に、こんなものが残されているんだ」
「それだけじゃないわ、シャープール」
メイファが石碑の右半分を指差す。彼女の瞳には、かつて大陸の奥地で浴びた血の記憶が蘇っているようだった。
「この歪に絡み合う蛇のような線、そして中央の目を模したような不気味な刻印。これは雲南の地底遺構で私たちを殺そうとした、あの呪われた一族の印よ。波斯の美しい文様と、雲南の禍々しい呪詛が、まるで最初から一つの生き物だったかのようにここで混ざり合っている」
「ああ、私もこれを見ていると、耳の奥が酷く痛む」
アルダシールは自らの額を押さえ、苦悶の表情を浮かべた。
「我が家系に代々伝わる原因不明の偏頭痛が、この石碑の前に立った瞬間から激しく主張し始めている。この地には、私たちの血のなかに眠る記憶を呼び覚ます何かがあるに違いない」
「パパ、ママ、あの大きいおじさんがこっちを見て笑ってるよ」
アルスが頭領の男の服の裾を引っ張りながら、無邪気に声をあげた。
混乱する一行の様子を見ていた頭領の男は、不器用な笑みを浮かべると、彼らの肩を次々と叩いた。その手のひらは驚くほど固く、幾多の死線を潜り抜けてきた戦士独特の重みがあった。
「ウジ、アバ、サケ。ノメ」
頭領はそう言うと、石碑のある薄暗い祭壇から彼らを連れ出し、集落の中央にある開けた広場へと促した。
広場ではすでに、隼人の民たちによって歓迎の準備が進められていた。むき出しの地面に大きな焚き火がいくつも起こされ、獣の肉が香ばしい煙をあげて焼かれている。
「おいおい、歓迎してくれるってのは本当らしいな」
シャープールが鼻を鳴らし、焚き火の近くに用意された木の切り株にどっかりと腰を下ろした。
「言葉は通じねえが、酒と肉があれば海の男は誰とでも身内になれる。頭領、お前さんが言うサケってやつを早く見せてくれ」
頭領は満足そうに頷くと、部下の戦士に合図を送った。すぐに運ばれてきたのは、粘土を焼き固めた大きな素焼きのカメだった。蓋を開けた瞬間、周囲の空気が一変するほどに濃厚で、どこか果実の腐敗にも似た強烈な芳香が広がった。
「ほう、これはなかなかに強いな。ただの穀物の酒じゃねえ、山の木の実や根を幾年も寝かせた特製の地酒か」
シャープールが目を輝かせると、頭領は木をくり抜いて作った大きな杯に、なみなみと濁った酒を注ぎ込んで差し出した。
「ノメ。ウジ、トモ」
「ありがたくいただくぜ」
シャープールは杯を受け取るなり、豪快に喉を鳴らして一気に煽った。直後、彼の顔がカッと赤くなり、大きな笑い声が広場に響く。
「カハッ、こいつは凄え。喉が焼けるようだ。だが美味い。波斯の極上の葡萄酒にも負けねえ、体に力が漲る最高の酒だぞ、アルダシール」
「お前はどこに行っても変わらないな、シャープール」
アルダシールは苦笑しながらも、差し出された別の杯を手に取った。ゆっくりと口に含むと、燃えるような熱さが喉を通り抜け、不思議と耳の奥の痛みが少しだけ和らぐのを感じた。
「不思議な酒だ。ただ酔わせるだけでなく、体内の巡りを無理やり動かされるような感覚がある。メイファ、お前も少し飲んでみるといい」
「ええ、いただきます」
メイファは上品に杯を受け取り、一口だけ口をつけた。彼女は驚いたように目を丸くし、周囲で立ち働く隼人の女たちの姿を観察し始める。
「あなた、この酒のなかに含まれている薬草の香り、どこかで嗅いだことがないかしら」
「薬草だと」
「ええ。雲南の山奥で、傷を癒やすために現地の民が使っていたあの独特の香草よ。彼らはこの極東の島国で、大陸の奥地と同じ植物を育て、同じ方法で酒を醸しているわ。この里の人々は、本当に何百年も前に大陸から渡ってきた者たちの末裔に違いないわ」
「トモ、ウジ、トモ」
頭領の男は、自分たちの酒が気に入られたことを確信し、何度も嬉しそうに同じ言葉を繰り返した。彼は自らも大きな杯で酒を飲み干すと、焼けた肉の塊をナイフで豪快に切り分け、アルスの前に差し出した。
「クエ、ワラベ。ツヨイ、クエ」
「わあ、ありがとう。いただきます」
アルスは遠慮することなく肉に食らいついた。七歳の小さな体からは想像もつかないほどの勢いで、骨付きの肉を噛み砕き、肉汁を滴らせながら平らげていく。その様子を見ていた隼人の若い戦士たちが、驚きと称賛の声をあげてアルスを取り囲んだ。
「おいおい、小僧。大人たちを驚かせるんじゃねえよ」
シャープールが笑いながら、頭領に向き直った。
「なあ、頭領。俺たちは西の海から来た。お前たちの先祖も、あの石碑を残した者たちも、昔々、海を渡ってきたのか。なぜこの地で、あの二つの紋章を守っているんだ」
シャープールは身振りを交え、石碑のある方向を指差しながら、必死に問いかけた。
頭領の男は酒を飲む手を止め、焚き火の炎をじっと見つめた。彼の顔に刻まれた深い皺が、火の光に照らされて不気味に蠢く。
「ムカシ、ムカシ」
頭領は地面に、指で一本の長い線を引いた。
「ニシ、オオカミ。ミナミ、ヘビ。ココへ、ニゲタ。アサティ、クル、タタカウ。ずっと、タタカウ」
「西の狼と、南の蛇だと」
アルダシールはその言葉を反芻した。西の狼とは波斯の血脈、南の蛇とは雲南の呪詛を指しているのではないか。
「彼らはヤマトをアサティと呼んでいるのか。ヤマトが攻めてくるから、ここでずっと戦い続けていると。やはり彼らは、ただのまつろわぬ民ではない。大陸から流れてきた、呪われた血脈の生き残りなのだ」
「だから彼らは、死を恐れない狂戦士のような気配をまとっているのね」
メイファが静かに呟いた。
「戦うことだけが、彼らがこの地で生き残るための唯一の方法だった。私たちの旅路が過酷だったように、彼らの数百年もまた、血の滲むような現実の連続だったのよ」
「ああ、その通りだ」
アルダシールは杯を地面に置いた。
「一本の冷徹な鎖が、私たちをここに結びつけた。ならば、私たちがこの地に辿り着いたこともまた、偶然ではない。この隼人の民とともに、私たちは何に立ち向かわねばならないのだ」
宴の火は激しく燃え上がり、戦鬼たちの歌う不気味で力強い歌声が、隠れ里の夜空へと響き渡っていった。互いの素性は完全には分からずとも、遺伝子に刻まれた宿命の記憶が、彼らを急速に結びつけていく。過酷な現実を一本の鎖で繋ぐ物語は、この南端の地でさらに深い謎へと足を踏み入れようとしていた。




