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アルダシールと銀華~千年の時空を駆ける鬼と狐の恋物語  作者: 秋津ネオ


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東シナ海のど真ん中で急襲してきた巨大な怨念の塊を、七歳のアルスが船を壊さないようにフルパワーでぶちのめした

 

 湧き上がる黒い霧の最深部から現れたのは、到底この世の生物とは思えぬ歪な質量であった。


 それは波間に消えた数多の水夫や兵たちの怨念が、安禄山の放った呪詛によって強引に繋ぎ合わされた異形の巨体だった。濡れた頭部には赤く不気味な複眼が無数に蠢き、海水を滴らせながら船を見下ろしている。


 亡者が咆哮を上げると同時に、骨を刺すような禍々しい冷気が甲板の上を一瞬で吹き抜けた。波飛沫は瞬時に氷へと変わり、木製の床を白く染めていく。


「う、動けねえ。足が床に張り付きやがった」


 船長のシャープールが必死に舵を握り締めながら歯を鳴らした。呪詛を含んだ冷気は人間の生気を奪い、周囲の乗組員たちの身体を瞬く間に凍り付かせていく。船の各所がきしむ音を立て、このままでは凍結による破壊を待つばかりの状況となった。


「船長、そのまま舵を死守していろ。メイファ、仕掛けるぞ」


 アルダシールは大股で氷の床を踏み締め、波斯の直剣を真っ直ぐに構えた。己の内に眠る西の果てより流れる血脈の昂ぶりが、身体を包む冷力を力強く押し返す。


 亡者が家屋ほどもある巨大な腕を振り下ろし、商船を上から叩き潰そうと迫ってきた。質量と冷気が混ざり合った一撃は、まともに受ければ巨船といえども一瞬で海の藻屑と化す代物である。


「俺の目の前で、この船を沈めさせはせん」


 アルダシールは鋭く息を吐き出し、迫り来る怨念の質量を真っ向から受け止めるべく刃を突き出した。剣先から放たれた目に見えぬ覇気が、亡者の腕と激突する。


 押し合う両者の力によって空気が激しく歪み、凄まじい衝撃波が周囲の霧を円形に吹き飛ばした。大男の踏み締めた足元から、張り付いた氷が四方へとひび割れて弾け飛ぶ。


「あなた、今よ」


 その隙をメイファは見逃さなかった。氷の張った甲板の上を、彼女はまるで風に乗るかのように滑らかに駆け抜けた。


 両手に握った短剣が、陽光を遮られた薄闇の中で鋭く閃く。メイファは高欄を蹴って亡者の顔面へと肉薄し、その不気味な複眼の数々を正確に切り裂いていった。


「ギシャアアアアッ」


 視界を奪われた亡者が狂乱し、苦悶の声を上げながら激しく身悶えする。


「パパ、ママ、最高の連携だね。次は僕の番だよ」


 甲板の隅で息を潜めていたアルスが、嬉しそうに声を弾ませた。


「アルス、足元に気をつけろ。船を壊すなよ」


 アルダシールが剣を構え直しながら鋭く命じる。


「分かっているよ、パパ。だから、ここからは飛ばせてもらうね」


 七歳の少年は不敵に笑うと、足元の木板には一切の力を加えず、頭上から垂れ下がっていた太いロープへと手を伸ばした。


 アルスはその剛腕だけでロープを手繰り寄せ、振り子のように自分の身体を船外の海面上空へと大きく放り出した。船に負荷をかけないため、戦いの舞台を空中へと移したのだ。


 海を覆う黒い霧を突き抜け、アルスは遥か上空へと跳躍した。その姿は、雲を割って降り注ぐ一筋の光のようでもあった。


「いくよ、悪い塊。パパとママをいじめる奴は、僕が絶対に許さないんだから」


 空中には踏み締める足場など存在しない。しかし、アルスの身体に眠る黒海周辺の巨人族の血脈は、ただ拳を握るだけで周囲の空気を凝縮させ、圧倒的な質量へと変えていく。


 アルスは小さな拳を天に掲げ、全身の力をその一点へと集中させた。彼の背後に、かつて大陸を震撼させた強大な影が幻視されるほどの圧力が満ちていく。


 狂乱する巨大亡者が頭上を見上げた瞬間、アルスの全力の一撃がその脳頂へと叩きつけられた。


 大気が爆発したかのような圧壊現象が起き、衝撃の波動が同心円状に広がった。怨念の塊であった異形の巨体は、その圧倒的な圧力に耐えかねて、頭部から一瞬で形を失い、細かな煤となって四散し、そのまま荒れ狂う海へと霧散していった。


 それだけではない。拳から放たれた衝撃の余波は、眼下に広がる東シナ海の海面をも綺麗に左右へと割り、巨大な潮の壁を作り出した。


「ふぅ、大成功だね」


 アルスは割れた海から湧き上がる激しい上昇気流を捉え、まるで木の葉のように軽やかに甲板へと着地した。床の木板は、一枚たりとも軋んでいない。完璧な力の制御であった。


 亡者が消滅すると同時に、船体を覆っていた呪われた氷は跡形もなく溶け去り、周囲を包んでいた黒い霧も急速に薄れていく。


「嘘だろ。あんな化け物を、たった一撃で消し去りやがった」


 舵にしがみついたままの一部始終を見ていたシャープールは、完全に腰を抜かした状態で、信じられないものを見る目をアルスに向けていた。プロの海の男として幾多の修羅場を潜ってきた彼ですら、この七歳の少年の力は理解の範疇を超えていた。


「我が息子の力だ。驚くのは無理もないが、船長,今は先を急いでくれ。霧が晴れるぞ」


 アルダシールは静かに直剣を鞘に収め、愛息の頭を優しく撫でた。


「よくやった、アルス。本当に床を傷つけずに仕留めるとはな」


「うん、パパ。僕、ちゃんと約束を守ったよ。ママも怪我はない」


「ええ、あなたの御蔭で無事よ、アルス。本当に頼もしい子ね」


 メイファも短剣を収め、泥に塗れた息子の頬を愛おしそうに拭った。


 やがて、完全に黒い霧が引き払い、東シナ海の広い海原にまばゆい陽光が戻ってきた。


 シャープールは未だに震える手で舵を回し、船の進路を真っ直ぐに東へと向け直した。安禄山の放った不気味な呪詛の霧を突破した商船は、追い風を受けて驚くほどの速度で波を蹴立てて進んでいく。


 それからの航海は、過酷な時間の連続であった。


 広州の港を出てから二十日あまり、果てしない東シナ海の荒波と退屈な船上生活に耐え続け、誰もが焦燥感を抱き始めた頃であった。


 風が凪ぐ日には船は海面で立ち往生し、容赦ない太陽の光が甲板を焼き払った。備蓄された水は次第に濁り、干し肉は石のように硬くなっていく。大人たちでさえ気力を削がれる環境の中、アルスだけは元気そのものであった。


「パパ、お魚が跳ねたよ。あのおおきなお魚、僕が捕まえてあげようか」


 アルスは退屈を紛らわせるように高欄から海を覗き込み、泳ぐ巨魚の影を見つけては目を輝かせていた。その底抜けた明るさが、過酷な航海に疲弊した乗組員たちの心をどれほど救ったか分からない。


 夜になると、満天の星々の下でアルダシールとメイファは静かに語り合った。


「あなた、船長が言っていた隼人という民のこと、どう思う」


 メイファが夫の肩に頭を預え、冷たい夜風に身を縮めながら呟いた。


「雲南の文様を持つという話か。偶然とは思えん。あの忌まわしい地での戦いが、海の向こうの国にまで繋がっているのだとしたら、それは俺たちの血脈にまとわりつく、逃れられぬ宿命の導きなのかもしれん」


 アルダシールは夜空を見上げ、西の果てより流れる己の命脈に思いを馳せた。


「私たちの旅は、どこまで行けば終わるのかしら。銀華の待つ未来の地へ、本当に辿り着けるの」


「辿り着いてみせるさ。そのために、俺たちは生き延びて、この命脈を必死に繋いできたのだからな」


 アルダシールは妻の手を強く握り返し、暗闇の先にあるはずの東の果てを睨み据えた。


 そして二十二日目の朝、見渡す限りの青い水平線の向こうに、これまで見たこともない険しい形をした島々の影が、うっすらと姿を現し始めた。


「見えてきたぞ。あれが日出ずる国の南端、九州の隼人たちが潜む領域だ」


 シャープールが寝不足の目を擦りながら、前方を指差して叫んだ。乗組員たちからも、ようやく陸地が見えたことへの歓声が沸き起こる。


 アルダシールは高欄に手をかけ、その厳めしい異国の島影をじっと見つめた。緑に覆われながらも、どこか人を寄せ付けぬ険しさを放つ大地。雲南の地から始まった影喰との因縁、そして己の遺伝子に焼き付いた記憶が、あの未知なる地へと自分たちを導いている。


「いよいよだな。俺たちの命脈を繋ぐ、新たな戦いの幕開けだ」


 七歳の小さな怪物を連れた波斯の遺児たちは、果てしない海路を越え、ついに約束の地へとその足を踏み入れようとしていた。


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