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アルダシールと銀華~千年の時空を駆ける鬼と狐の恋物語  作者: 秋津ネオ


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波斯の巨船が切り拓く未知なる航路と同胞の船長が語る東の果ての国に蠢くまつろわぬ民の噂

 

 総員の雄叫びと共に巨大な錨が巻き上げられ、波斯の商船はゆっくりと広州の港を離れていった。


 岸壁には、先ほどアルスが引き剥がした石畳や、薙ぎ倒された影喰一味の残骸が転がったままであり、遠ざかる街の喧騒が潮風にかき消されていく。


「パパ、見て。お家がどんどん小さくなっていくよ」


 アルスが船の木製の高欄から身を乗り出し、きらきらと輝く海面を指差して笑った。


「アルス、あまり身を乗り出すと危ないわ。いくらあなたでも、海の底に落ちたら大変よ」


 メイファが我が子の衣服の端を強く掴みながら、潮風に長い髪をなびかせて言った。


「大丈夫だよ、ママ。僕、泳ぐのも得意だもん。でも、このお船は地底の川にあったお船よりずっと大きくてかっこいいね」


「そうだな。だが、床を踏み抜いて壊すなと言ったはずだぞ。大人しくしていろ」


 アルダシールは息子の頭に大きな手を置き、背後に立つ一人の男へと視線を向けた。


 アルダシールの体躯は見上げるほど圧倒的であったが、その背後に佇む男もまた、豊かな顎髭を蓄え、異国の豪奢な絹衣を纏った大柄な人物であった。この巨船の主であり、同胞たる波斯の船長、シャープールである。


「港での戦い、見事というほかはなかった。特にその少年の力、信じがたいものだ」


 シャープールは低く喉を鳴らし、アルダシールへと歩み寄ってきた。


「港をあんなにしちまって。だが、助かったよ。あの猟犬どもにはうちの連中も手を焼いていたんでな。で、あんた何者だ。堅気じゃねえな」


「アルダシールだ。訳あって東の果てへ向かいたい。船を出してくれ」


 アルダシールは静かに応じ、腰の直剣に手をかけた。


 シャープールはアルダシールの右腕、衣服の隙間から微かに覗く紋章に目を留め、そのあり得ない体格を見上げた。


「その紋章、それにその体だ。西の同胞なのは一目で分かるが、ただの流民じゃねえな。長安の方で安禄山が血眼になって捜している大物ってのは、あんたのことか」


「だったら、乗せるのを拒むか」


 アルダシールが鋭い視線を返すと、シャープールは不敵に笑った。


「ハッ、冗談言え。あの貪欲な狼に一太刀浴びせた奴なら、大歓迎だ。行き先は九州の南だ。あそこなら、唐の役人の眼も届かねえ」


 シャープールは親指で遥か東の水平線を示した。


 「パパ、この船長さん、パパの名前を聞いて急に楽しそうになったね」


 アルスが不思議そうに首を傾げ、笑う船長の姿を見つめた。


「シャープール、表向きはただの密航者として扱え。船の者たちに無用な混乱を与えたくはない」


「分かっているさ。これより本船は、東シナ海の荒波を越え、日出ずる国へと向かう。あそこには朝廷にも従わねえ隼人って泥臭い連中がいてな」


 シャープールは高欄に腕を乗せ、海の向こうを睨みながら言葉を続けた。


「面白いことに、あいつらの着てるもんだの盾の飾りは、俺が昔見た大陸の南の山奥、つまり雲南の連中にそっくりなんだよ」


 その言葉が響いた瞬間、メイファの顔が劇的に強張った。


「雲南、だと」


 アルダシールが低く呟き、隣の妻と視線を交わす。


 メイファは短剣の柄を無意識に握り締め、呼吸を荒くした。多くを語らずとも、あの忌まわしい逃亡の記憶が蘇り、盤上の創造主が仕組んだ新たな遊戯の匂いを察知したのだ。


「偶然ではあるまいな」


 アルダシールは苦々しく笑い、愛息の肩を引き寄せた。


「パパ、僕、その隼人っていう人たちに会ってみたいな。僕とおんなじ,強い人がいるのかな」


 アルスが目を輝かせ、自分の小さな拳をパシりと叩いた。


「いるかもしれんな。だが、俺たちの目的地は、銀華の待つあの遥か未来の約束の地だ。まずは無事に海を渡りきることが先決だぞ」


 アルダシールは息子の言葉を遮るように言ったが、己の内に流れる呪われた命脈と、雲南、そして九州の隼人が一本の鎖で繋がっていく奇妙な感覚に、背筋が寒くなるのを禁じ得なかった。


 「あなた、風が変わったわ。少し冷たくなってきた」


 メイファが周囲の海面を見つめながら、鋭く声を潜めた。


 先ほどまで穏やかだった波が、にわかにその高さを増し、巨船の横腹を激しく叩き始めている。


 白い泡が飛び散り、甲板が大きく傾いた。


「船長、この霧は何だ。ただの時化ではあるまい」


 アルダシールは剣の柄を握り締め、前方から迫り来る不気味な黒い霧を睨みつけた。


 霧の奥から、湿った潮の匂いに混ざって、あの地底で嗅いだ影喰一味の不気味な妖術の残り香が、うっすらと漂ってきたからだ。


「これは、安禄山の呪詛か。奴らの手が、この広い海の上にまで伸びてくるというのか」


 メイファが短剣を引き抜き、アルスの前に立ちはだかる。


「ママ、大丈夫だよ。どんな悪い霧が来ても、僕がパパと一緒に全部吹き飛ばしてあげる」


 アルスは不敵に笑い、地を強く踏み締めた。


 船体がきしむほどの衝撃が走り、少年の身体から巨人族の圧倒的な覇気が放たれる。


「シャープール、乗組員たちを船室へ退避させろ。ここから先は、俺たちの戦いだ」


 アルダシールは鋭く剣を抜き放ち、黒き霧の中から現れるであろう新たなる脅威を迎え撃つべく、激しく揺れる甲板の上に毅然と立ち塞がった。


 海のシルクロードを進む波斯の巨船は、大いなる意思の嵐の中へと、今まさに突入しようとしていた。


 黒い霧は生き物のように蠢き、またたく間に巨船の全方位を包み込んでいった。


 陽光は遮られ、真昼だというのに世界は不気味な薄闇へと塗り潰される。


「船長、舵を固定しろ。直進するのだ」


 アルダシールの怒号が甲板に響く。


「しかしアルダシール殿、この霧の中では前方の岩礁も見えぬ。これでは座礁を待つばかりだ」


 シャープールが必死に舵を抑えながら叫び返す。


「気配が来るわ、あなた。上よ」


 メイファの警告と同時に、帆柱の最上部から不気味な影が音もなく舞い降りてきた。


 それは人間の形をしていたが、その皮膚は生気を失った灰色であり、瞳には赤い光が不気味に灯っている。影喰一味が海の魔物と結託して放った、怨念の戦士であった。


「パパ、あいつら、僕が落としてあげる」


 アルスは叫ぶと同時に、甲板を強く蹴って跳躍した。


 七歳の少年の小柄な体が弾丸のように空を突き抜け、帆柱にしがみついていた影の戦士の胸元へと強烈な蹴りを叩き込む。


 触れた瞬間に肉体が弾け飛ぶほどの圧力が加わり、灰色の戦士は原型を留めぬまま煤となって四散し、そのまま荒れ狂う海へと霧散していった。


「まず一人目。パパ、まだまだ後ろからたくさん湧いてくるよ」


 アルスはロープを片手で掴みながら、無邪気な笑顔でパパを見下ろした。


「よくやった、アルス。メイファ、船長を守れ。俺が正面の雑魚を一掃する」


 アルダシールは大きく刃を振りかざした。


 剣先から放たれる圧倒的な剛力が、迫り来る黒い霧を路ごと真っ二つに切り裂いていく。


 波を割って進む船の上で、灰色の戦士たちが次々と甲板へ這い上がってきた。彼らは声も立てず、ただ鈍く光る錆びた曲刀を構えてアルダシールを包囲する。


「不気味な人形どもめ。地底の怪物に比べれば、これしきの木偶など物の数ではない」


 アルダシールは一歩地を踏み締めると、正面の戦士の懐へ一気に踏み込んだ。波斯の直剣が鋭い弧を描き、敵の曲刀ごと胴体を真っ二つに両断する。手応えの無い、泥を斬ったような感覚と共に、切り裂かれた戦士の身体が黒い霧へと霧散していった。


「あなた、左から三人」


 メイファの鋭い叫びと共に、彼女の短剣が別の戦士の眉間を正確に貫いた。身軽な体躯を活かし、船のロープや木箱を跳び箱のように使って立ち回るメイファの動きに、影の人形どもはついていくことができない。


「僕も負けないよ」


 アルスが帆柱から滑り降りると同時に、目の前にいた戦士の頭部を上から鷲掴みにした。


 そのまま、凄まじい力で甲板へと押し付ける。


 落雷のような衝撃が甲板を激しく揺らしたが、アルスは加減を覚えたのか、床をぶち抜くことなく敵の身体だけを完全に霧へと還してみせた。


「どうだ、パパ。僕、今度は床を壊さなかったよ」


「上出来だ、アルス。だが敵の本陣はまだ奥にいる」


 アルダシールは直剣の汚れを払いながら、霧の最深部を見据えた。


 黒い霧の向こうから、一際巨大な影がゆっくりと姿を現しつつあった。それは数多の怨念が混ざり合った、海を彷徨う異形の亡者の姿をしていた。


 呪われた命脈を繋ぐための海の死闘は、この東シナ海の最中で、さらに激しさを増していこうとしていた。


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