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アルダシールと銀華~千年の時空を駆ける鬼と狐の恋物語  作者: 秋津ネオ


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地底を抜けた俺たちを阻む嶺南の山脈と、西へ進撃した無敵の軍勢を畏怖する突厥の牙

 

 雲南の暗き地底を命からがら脱出したアルダシールは、隣を歩く我が子アルスの力強い足取りを見つめながら、目の前に緑の壁の如く聳え立つ嶺南の山脈を見上げた。


 地底のひんやりとした空気とは打って変わり、地上の空気はねっとりと重く、呼吸をするだけでも肺が焼けるように熱い。


「あなた、顔色が優れないわ」


 メイファが夫の傍らに歩み寄り、その逞しい腕にそっと手を添えた。彼女の指先は微かに震えていたが、その瞳には夫への深い情愛と、これからの過酷な旅路を見据える強い覚悟が滲んでいる。


「地底の案内人が遺した不気味な予言が、まだ胸に引っかかっているの」


「いや、案内人の言葉だけではない。この山腹の至る所から、ただならぬ殺気が漂っているのだ。奴らはまだ諦めていない」


 アルダシールは唇を噛み締め、腰の剣の柄に手をかけた。革の鞘が擦れる鈍い音が、静かな森に小さく響く。


 地底で突厥の狗の首領を激闘の末に討ち取ったものの、地上に伏せられた追っ手たちの網の目は、想像以上に細かい。


「突厥の狗たちね。安禄山の差し金かしら」


「奴の母方は突厥の有力な巫女の家系だからな。同胞の狼を動かす大義名分としては十分すぎる。だが、奴らの執念にはそれ以上の闇があるのだ」


「それ以上の闇?」


 メイファが短剣の柄に手をかけながら、周囲の茂みに鋭い目を凝らす。


「パパ、ママ、森の奥から変なにおいがするよ。鉄の錆びたみたいな、嫌なにおいだ」


 七歳になったアルスが、小さな鼻をひくつかせながら二人の前に出た。


 その体躯には、すでに巨人族の血筋たる頑強な気配が満ちている。五歳の段階で雲南の地底にて影喰一味をめちゃくちゃにやっつけたあの怪力は、地上に出てさらに鋭さを増していた。


「アルス、敵の気配が分かるか」


「うん、あそこの大きな木の陰に三人隠れてる。パパ、僕が全員叩き潰してあげようか」


「頼もしいが、油断はするな。奴らは命を惜しまぬ刺客だ。それに、奴らは畏怖しているのだ。かつて西の地へ進撃し、世界を震撼させたあの軍勢の恐怖をな」


「あの、フンと呼ばれた無敵の強者たちのことね」


 メイファが息子の肩をそっと抱き寄せる。


「そうだ。地底の案内人は、あの恐るべき軍勢の源流が、これから向かう東の果ての国にあると告げていた。奴らは、我が血脈がその未知なる地へと至ることを恐れているのだ」


「未知なる地で、何かが目覚めるというの」


「西の果てより流れる私の血脈と、その東の地が交わるとき、盤上の創造主の力が再び動く。奴らはそれが怖いのだ。だからこそ、ここで我が命脈を断つつもりだろう」


 アルダシールの言葉に応じるように、不意に前方の茂みが激しく揺れた。


 バサバサと鳥たちを一斉に羽ばたかせ、不気味な静寂が破られる。


「来るわ、あなた」


 メイファが短剣を引き抜き、アルダシールの背後に回って油断なく身構えた。


「パパ、僕が先陣を切るよ」


 アルスが地を強く踏み締めると、足元の頑丈な岩盤が蜘蛛の巣のようにひび割れた。


「案ずるな、二人とも。我が子と、遥か未来 of 約束の地へ至る未来は、決して奴らには渡さない」


 アルダシールは鋭く剣を抜き放ち、緑の深淵から現れる刺客を迎え撃つべく、腰を落とした。


  茂みを掻き分けて現れたのは、獣の皮を身に纏い、顔に不気味な泥を塗った三人組の男たちだった。


 彼らの手には、鈍く光る湾刀が握られている。その細い刃は、狙った獲物の息の根を確実に止めるための実戦的な形状をしていた。


「やはり、北の狼の残り香か」


 アルダシールが剣を構え直すと、中央の男が低く喉を鳴らして笑った。


「波斯の迷い子が、大それた大言を吐く。お前の血が東の果てへ至ることはない。ここで肉を削ぎ、骨を砕いて、安禄山様の祭壇に捧げてやる」


 男の言葉は、酷く濁った異国の訛りを含んでいた。


「安禄山の猟犬風情が、よく喋る。地底に沈んだお前たちの頭目の後を追いたいか」


 アルダシールは挑発するように刃を向けた。


「笑うがいい。我ら突厥の牙は、一本折れたとて揺るぎはせぬ。お前たちの呪われた命脈を絶つまで、百の狼が影から牙を剥くぞ」


 男の合図とともに、三人が同時に地を蹴った。


 その動きは野獣そのものであり、左右の二人がアルダシールの死角を突くように回り込み、中央の男が正面から痛烈な一撃を繰り出してくる。


「メイファ、左だ」


「任せて」


 メイファは叫ぶと同時に、左側から迫る男の懐へと滑り込んだ。


 彼女の小柄な体躯を活かした素早い身のこなしは、大柄な突厥の戦士の予測を上回る。男が湾刀を振り下ろすより早く、メイファの短剣が男の手首を鋭く切り裂いた。


「ぐあっ」


 男が武器を落とした隙を逃さず、メイファはその胸元へ向けて容赦なく追撃を叩き込む。


 一方、アルダシールは正面の攻撃を受け止めていた。


 正面の男が放つ重い一撃を剣の腹で受け流し、その勢いのまま右側の空間を睨む。


 そこには、右側から迫るもう一人の刺客がいたが、その前に小さな影が立ち塞がっていた。


「お前たちの相手は僕だよ」


 アルスは迫り来る湾刀を避けることもせず、剥き出しの小さな左手で真正面からガシィと掴み取った。


 金属の擦れる嫌な音が響くが、巨人族の血を引くアルスの皮膚には傷一つ付かない。


「な、何だと。子供が刀を素手で掴んだというのか」


 右の男が驚愕に目を剥いた瞬間、アルスは不敵に笑い、掴んだ刀を力任せにねじ切った。


 パキンと軽い音を立てて鋼の刃が砕け散る。


「そんな玩具じゃ、僕には勝てないよ」


 そのままアルスは、小さな右拳を男の胸元へと突き出した。


 ドゴォンという、およそ七歳の子供が出したとは思えない凄まじい衝撃音が山腹に響き渡る。


「がはっ」


 男は弾かれた石のように吹き飛び、背後の太い巨木を二本もへし折りながら、霧の奥へと消えていった。


「化け物め、このガキ、ただの人間ではないぞ」


 アルダシールと刃を交えていた中央の男が、恐怖に顔を引き攣らせて一歩後退する。


「驚くのはまだ早いぞ。俺たちの執念を、その身に刻んであの世へ持ち帰るがいい」


 アルダシールは一気に距離を詰め、中央の男の隙だらけの脇腹へと刃を走らせた。


「がはっ」


 確かな手応えとともに、男の体が崩れ落ちる。


「兄貴」


 メイファに手首を負傷させられていた最後の一人が叫び、我を忘れて突っ込んできた。


 防陣を失った突撃など、アルダシールの敵ではない。アルダシールは冷静に男の刃を受け流し、一閃の下にその首筋を切り裂いた。


 ドサリと、巨体が地面の腐葉土の上に倒れ込み、静寂が戻る。


  「ふぅ、手応えがなさすぎるよ。雲南の地底にいた奴らの方が、まだ根性があったな」


 アルスは衣服についた泥を払いながら、何事もなかったかのように唇を尖らせた。


「お前の怪力には、相変わらず圧倒されるな。さすがは我が息子だ」


 アルダシールは剣の血を拭い、鞘に収めながら、頼もしすぎる我が子の頭を乱暴に揺らした。


「本当にね。でもアルス、あまり調子に乗っては駄目よ。これから向かう広州には、もっと狡猾な影喰一味の罠が待ち受けているかもしれないのだから」


 メイファが短剣を収め、息子の頬に触れて優しく戒める。


「分かっているよ、ママ。僕はパパとママを絶対に守るって決めたんだから」


 アルスは胸を叩き、無邪気な笑顔を見せた。


「ああ、頼りにしてるぞ。だが、奴らが言っていた言葉が気になるな。百の狼が影から牙を剥く、と」


 アルダシールは険しい山道を睨みつけた。


「安禄山の権勢と突厥の執念が結びついている以上、この嶺南の道筋には、さらに多くの刺客が潜んでいると考えた方が良いわね」


 メイファが額の汗を拭いながら、倒れた男たちを見下ろした。


「南東の広州へ向かう道は、想像以上に険しいものになりそうね」


「だが、退く道はない。波斯の商船に乗り、東の果ての国へ至る。それだけが、俺たちの未来を繋ぐ唯一の道なのだから」


 アルダシールはメイファの肩を抱き寄せ、再び歩みを始めるべく、木々の隙間から差し込む僅かな光を見つめた。


「パパ、ママ、僕が先頭を歩いて道を拓いてあげるよ。どんな悪い奴らが来ても、僕が全部殴り飛ばしてあげる」


 アルスは元気に叫ぶと、再び力強い足取りで歩き始めた。


「本当に頼もしい男の子に育ってくれたわね」


 メイファが夫の顔を見上げて微笑む。


「ああ、遺伝がる記憶の目覚めは、俺たちの想像を超えている。あいつがいる限り、どんな呪いも恐れるに足りん」


 アルダシールは妻の手を強く握り締め、一歩を踏み出した。


 三人の背後では、まだ見ぬ約束の地への遠い道のりが、青々とした山脈の向こうへと続いていた。



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