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アルダシールと銀華~千年の時空を駆ける鬼と狐の恋物語  作者: 秋津ネオ


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案内人が遺した不吉なる千年の呪詛

 

 岩肌を掴む指先が血に染まり、最後の一歩を踏みしめたとき、視界を遮っていた漆黒の闇が嘘のように割れた。


 目に飛び込んできたのは、東の地平線から昇り始めたばかりの、燃えるような朝生の光だった。


 冷徹な突厥の狗たちの叫び声は、はるか地底の底へと置き去りにされ、今はただ乾いた風の音だけが周囲を満たしている。


「出られた、本当に、闇の底から抜け出せたのですね」


 メイファが眩しそうに目を細め、隣に立つ我が子の頭を愛おしそうに撫でた。


 七歳になったアルスは、衣服こそ泥に汚れているものの、その瞳には地上の光を反射して力強い輝きが宿っている。


「ああ、追手の気配もここまでは追ってこられない。怪我はないか、メイファ、アルス」


 アルダシールは剣を鞘へと収め、己の肉体を確認した。


 右腕の紋章は、地上の陽光を浴びて静かに脈打つだけの、穏やかな微熱へと落ち着いている。


「私は大丈夫です。アルスも、パパの背中を追って自分の足で力強く登りきりました。でも、あなたのその腕の傷が酷い」


「パパ、大丈夫だよ。僕、全然平気。このくらいの岩登り、五歳のときに雲南の暗闇で影喰一味をめちゃくちゃに叩きのめしたときに比べたら、お散歩みたいなものだもん」


 アルスは自慢げに胸を張り、小さな拳を握ってみせた。


「この程度の傷、戦場に比べればかすり傷だ。それよりも、案内人はどこへ行った」


 アルダシールが周囲を見渡すと、岩陰から静かに這い出るようにして、白い鱗 of 幹部、すなわち案内人が姿を現した。


 その佇まいは地底にいたときと変わらず、人ならざる不気味な静寂を纏っている。


「ここにいますよ、アルダシール殿。大いなる盤上の意思は、あなたたちをまだ死なせるつもりはないようですな」


 案内人は杖を突き、満足そうに頷いた。


「案内人、あんたのあの光を操る術には救われた。感謝する。だが、ここから先はどうする。俺たちはどこへ向かえば、あの東の果ての国へ届くのだ」


 アルダシールは一歩前へ進み出た。


 彼の目指す地はただ一つ、銀華が待つという日出ずる国、日本である。


「私の役目は、あなたたちをこの断絶の谷から引き上げるまで。ここから先は、自らの足で運命を切り開きなされ」


「別れるというのか、案内人。あんたの導きがなければ、俺たちはこの大陸の広大さに迷い、また大国の狗どもに囲まれる」


 メイファが不安を露わにして、案内人の顔を覗き込んだ。


「迷うことはありませぬ、メイファ殿。アルダシール殿、ここから南東へ進みなされ。険しい嶺南の山々が立ち塞がりますが、それを越えれば南海の大交易港である広州へ至る」


「広州だと。そこに行けば、東の国への船があるのか」


 アルダシールの問いに、案内人は不敵な笑いを浮かべ、その細い指先で遥か南の空を指し示した。


「広州には、海のシルクロードと呼ばれる巨大な水路が集まっております。そこには、あなたと同じ西の果ての故郷を持つ、波斯の商船が頻繁に行き交っているのです。同胞の情を頼り、その大船に紛れ込みなされ。さすれば、荒れ狂う東シナ海の波涛を越えて、東の果ての国、九州の地へと確実に辿り着けましょう」


「波斯の船、俺と同じ血を持つ者たちの船か。それなら、唐の役人の眼を盗んで海を渡ることも不可能ではないな」


 アルダシールの胸に、確かな希望の灯火が宿った。


 雲南の地から陸路を往くのではなく、南の海から一気に海路を進むという提案は、彼にとって最も現実的な道標だった。


「そうです。しかし、忘れてはなりませぬぞ」


 案内人の声が、急に地底の底から響くかのような、冷徹で重苦しい響きを帯びた。


「忘れてはならない、とはどういうことだ」


「あなたたちが目指す東の果ての国は、決して約束された楽園ではありませぬ。あなたから繋がる遠い子孫の血脈は、やがてその地で、ある巨大な一族を裏切る宿命を背負っているのです」


「裏切りだと。俺ではなく、俺の血を受け継ぐ者が誰かを裏切るというのか」


 アルダシールは眉をひそめ、右腕の紋章を強く握りしめた。


「平家、かの地ではぺいしゃとも呼ばれる、西の海を統べる大いなる一族です。あなたの血脈は、はるか未来の世で、その同胞たる一族を奈落へと突き落とす加担をすることになる。大いなる代償として、千年の呪詛があなたの子孫を縛り続けるでしょう」


「千年の呪詛、そんな馬鹿な話があるか。俺はただ、家族を守るために生き延びようとしているだけだ。未来の子孫の行いなど、今の俺にどうしろと言うのだ」


「パパ、その千年の呪いってなあに。頭が痛くなるの。僕がそのぺいしゃって奴らも、悪い呪いも全部殴り飛ばしてあげるよ」


 アルスが会話に割り込み、自慢の力瘤を作ってみせた。


「人の知恵など、天地の理の前には無力な羽虫の羽ばたきにすぎません。そのぺいしゃを裏切った代償として、あなたの血を引く男子は代々、原因の分からぬ激しい偏頭痛と、眼を焼かれるような病の苦しみに悶え続けることになる。いくら抗おうとも、その宿命の遊戯からは逃れられぬのです」


「やめて、それ以上、不吉な予言で夫やこの子を惑わせないで」


 メイファが激昂し、短刀の柄を握り直して案内人を睨みつけた。


「惑わせているのではありません。私はただ、天の眼が見下ろす多重の絵巻物の頁をめくって見せただけです。その呪いを解く者が現れるのは、一千年以上も先の未来、やはりあの幻影に見た異界の夜の下でのこと。拝金に目の眩んだ者が血脈を切り離すとき、ようやく偏頭痛の幕は閉じるでしょう」


「あの幻影に見た、あの奇妙な光に満ちた街のことか」


 アルダシールは息を呑んだ。


 銀華の語った言葉と、案内人の予言が、不気味な一本の鎖となって彼の脳内で繋がっていく。


「さあ、刻限です。私は大いなる境界の監視へと戻らねばなりません。アルダシール殿、メイファ殿、現に生きる逞しき少年よ。呪われた旅路を、精一杯に進むがいい」


 案内人が杖を一度、強く地面に打ち鳴らした。


 次の瞬間、朝生の強い光が一行の視界を真っ白に染め上げた。


 アルダシールが思わず腕で目を覆い、再び目を開けたときには、そこに案内人の姿は影も形もなかった。


 ただ、乾いた風が吹き抜ける平原の真ん中に、彼ら三人だけが取り残されていた。


「消えた、まるで最初から幻だったかのように」


 メイファが呆然と周囲を見回し、呟いた。


「幻ではない。俺たちの身体に残る傷も、この右腕 の熱も、すべてが本物だ。案内人の言った通り、俺たちの進むべき道は決まった」


 アルダシールは南東の空を仰ぎ見た。


 そこには、険しく牙を剥く嶺南の山脈が、青い空の向こう側にそびえ立っている。


「あなた、あの恐ろしい予言を信じるのですか。千年の呪いだなんて、私たちの子供や、その先の孫たちが苦しむなんて、そんなの嘘ですよね」


 メイファの瞳に、涙が滲んでいた。


 母親として、我が子の未来に呪いがかけられていると言われて、平気でいられるはずがなかった。


「信じる必要はない、メイファ。未来のことがどうであれ、俺たちが今やるべきことは変わらない。俺はお前とアルスを命がけで守り抜き、広州へ行って波斯の船を捕まえる。それだけだ」


 アルダシールはメイファの肩を強く抱き寄せ、その震えを止めるように力を込めた。


「パパ、ママ、泣かないで。僕の頭はすっごく頑丈だから、そんな偏頭痛なんて絶対に起きないよ。もしその呪いっていう悪い奴が来たら、僕がこの拳でめちゃくちゃに叩き潰してあげる」


 アルスは不敵に笑い、パパとママの手を力強く握りしめた。


「そうね、アルス。あなたには巨人族の強い血が流れているものね。ありがとう」


 メイファは涙を拭い、息子の温かい手に救われたように微笑みを返した。


「行くぞ、二人とも。東の果ての国へ、銀華の待つあの遥か未来の約束の地へと繋がる道を、俺たちの手で切り拓くんだ」


 朝の光を背に受けながら、アルダシール一行は広州を目指して力強く歩み始めた。


 大陸を渡る旅路は、海のシルクロードという新たな舞台へと、その歩みを進めていくのだった。


「あなた、まずはあの目の前の山を越えなくてはなりませんね。道らしきものは見当たりませんが、大丈夫でしょうか」


 メイファが山脈の険しさを見上げながら、少し不安げに尋ねる。


「道がなければ作ればいい。突厥の狗どもの執拗な追跡を思えば、山の険しさなど可愛いものだ。案内人の言葉が確かならば、この嶺南の向こうには同胞たちの船が待っている。それだけで、俺たちの足取りを軽くするには十分すぎる理由だ」


 アルダシールは自らの剣の柄を叩き、力強く笑ってみせた。


「パパ、道なら僕が作ってあげるよ。見てて」


 アルスはそう言うと、一行の先頭に立って勢いよく駆け出した。


 人の往来を拒むような深い茂みや、斜面から崩れ落ちて道を完全に塞いでいた巨大な岩の前に立つと、アルスは小さな両手をその下に差し込んだ。


「おらぁ」


 少年の掛け声と共に、大人が数十人がかりでも動かせないはずの巨岩が、軽々と谷の向こうへと放り投げられた。


 岩が轟音を立てて転がり、行く手を阻む木々が一瞬にしてなぎ倒されて、見事な道が切り拓かれていく。


「本当に驚くべき力ね。五歳のときよりもさらに力が強くなっているわ」


 メイファが感心したように息を吐き出した。


「遺伝がる記憶の目覚めだな。この力があれば、どんな困難も打ち破れる」


 アルダシールは確信に満ちた口調で言った。


「でも、この子の未来のためにも、私たちは立ち止まるわけにはいきません。西の果ての故郷を失い、地底の闇を彷徨った私たちですが、今度は青空の下を進むことができる。それだけでも、大いなる意思の恵みかもしれませんね」


「ああ、その通りだ。どれほど過酷な宿命が未来の血脈を縛ろうとも、今ここにいる俺たちが屈せねば、その呪いもただの虚勢にすぎん。俺たちの血の力、ここで途絶えさせはしない」


 二人はしっかりと手を携え、一歩ずつ確実な足取りで、立ちはだかる緑深い嶺南の山麓へと足を踏み入れた。


 頭上には、地底の閉塞感をすべて吹き飛ばすかのような、どこまでも高く青い空が広がっており、彼らの新たな旅立ちを祝福するように強い陽光が降り注いでおった。



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