底なしの谷で聞こえた愛しい声が、俺の不器用な胸をこれでもかと掻き乱してくる
「いまの、声は」
アルダシールは地を這うような声で呟き、完全に足を止めた。
直刀を握る右手が、自分の意志とは無関係に小刻みに震えている。熱いのではない。むしろ逆だ。全身の血が凍りつくような、それでいて胸の奥だけが爆発しそうな、生まれて初めて味わう奇妙な感覚だった。
「あなた? どうしたの、急に真っ青な顔をして」
後ろからメイファが、怪訝そうに彼の顔を覗き込んできた。その瞳には、夫のただならぬ動揺に対する純粋な心配が色濃く浮かんでいる。
「 メイファ、お前には聞こえなかったか。今の、女の声が」
「え? 声なんて、風の音しか聞こえないわよ」
メイファは周囲の暗闇を見回し、そっとアルスの肩を抱き寄せた。
「ふん、やはりな」
先頭を行く幹部が、冷たい鱗の隙間から息を漏らした。
「この谷の底には、大戦で散った無数の者たちの執念が、今も磁場のように残っている。お前が聞いたのは、その残響が、お前の持つ『太古の記憶』と混ざり合って見せた幻聴に過ぎん」
(幻聴だと?なめるな)
アルダシールは歯を食いしばった。
そんな生ぬるい代物ではない。あの鈴の鳴るような、それでいてどこか切なげに響く響きは、俺の魂の最も深い場所の鍵を、一瞬でこじ開けていったのだ。
何百年、いや、千年の間、ずっと暗闇の中で待ち続けていたような、あの圧倒的な存在感。
「パパ、あそこの白いふわふわ、動いてるよ」
アルスがアルダシールの指をきゅっと握った。
見れば、鉄の舟の残骸の影で揺らめいていたあの白い光が、ゆっくりと、さらに深い闇の奥へと移動を始めていた。まるで、こちらを誘うように。
「アルス、あれが見えるのか」
「うん。綺麗な狐さんのしっぽみたい」
少年の無垢な言葉が、アルダシールの胸を鋭く刺した。
間違いない。あれは幻などではない。あそこに、俺がどうしても会わなければならない『誰か』がいる。
(だが、俺には今、この手がある)
アルダシールは、自分の大きな手を握り返してくるアルスの小さな手の温もりを感じていた。背後には、不安げに自分を見つめる妻がいる。
一人の男として、今の家族を裏切るような真似は絶対にできない。だが、あの白い光をこのまま見失えば、自分の命の半分を失うような、そんな確信があった。
「あなた、行くのね」
メイファが静かに言った。その声は震えていたが、不思議と覚悟が決まったような響きがあった。
「メイファ、俺は 」
「いいの、言い訳なんてしなくて。あなたの目は、もうあの光しか見ていないわ。だったら、私たちがここであなたの足を引っ張るわけにはいかない」
メイファは寂しげに、しかし強く微笑んだ。
「行きましょう。その代わり、私たちを置いていかないで。一緒に連れて行って」
「 当たり前だ」
アルダシールは短く吐き捨てると、直刀を強く握り直し、光の消えた闇の深淵へと一歩を踏み出した。
「おい、トカゲの役人。この先がどれだけ深かろうが関係ねえ。案内を続けろ」




