闇の底から呼ぶ声の主を追いかけていたら、信じられないほど綺麗な白い獣と目が合ってしまった
足元の岩肌はねっとりとした湿り気を帯びていて、一歩を踏み出すたびに、冷たい水音が暗闇の奥深くへと吸い込まれていった。
その音の響きが、この奈落の深さを嫌でも男に思い知らせてくる。
男の胸の中で暴れる熱は、下層へと歩みを進めるにつれて、さらに激しさを増すばかりだった。
それはかつて経験したようなただの不快な偏頭痛などではなく、肉体の内側から骨を焼き尽くそうとするような、どす黒くも鮮烈な奔流だった。
先を歩く白い鱗の幹部は、手にした松明の炎を不規則に揺らしながら、黙々と急な斜面を下りていく。
その足取りには迷いがなく、この底なしの谷が彼らにとっての庭であることを示していた。
松明の赤い光が照らし出すのは、不自然なほど滑らかに削られた黒い岩壁と、そこに突き刺さるように放置された、見たこともない金属の巨塊だった。
大昔に上空から降ってきたという鉄の舟の残骸は、長い年月の間に岩と同化し、まるで大地の傷口から覗く巨大な骨のように見えた。
人間たちの歴史など遥かに及ばない時間の質量が、そこにただ静かに横たわっている。
背後からは、我が子を強く抱きしめる妻の、小さく震える息遣いが途切れ途切れに聞こえていた。
男はその気配を感じるたびに、直刀を握る右手に血がにじむほどの力を込めた。
守るべきものがすぐ後ろにいる。
その事実だけが、男の理性をかろうじて現世に繋ぎ止めていた。
「パパ、あっち。あっちの大きな岩の陰に、白いお耳が隠れちゃったよ」
子供が男の服の端をきゅっと引っ張りながら、小さな声で囁いた。
怯えよりも、純粋な好奇心が勝っているような澄んだ声だった。
子供の目には、確かにその姿が映っているのだ。
大人の偏見や恐怖に曇らされていないその瞳は、暗闇の真実を正確に捉えていた。
男は一度足を止め、息を殺して闇の奥へと目を凝らした。
松明の光すら届かない漆黒の空間に、ぽつりと浮かび上がる白い影があった。
それは周囲の闇を拒絶するようにして、自ら微かな光を放っているように見えた。
夜露に濡れた美しい毛並みを持つ、白狐の姿だった。
その鋭くもどこか哀愁を帯びた瞳が、まっすぐに男を見つめていた。
目が合った瞬間、男の全身の毛穴が総毛立つ。
「待たせたな、我が鬼よ」
またしても頭の中に直接、鈴を転がすような透き通った声が響き渡った。
それは耳から入る音ではなく、魂の最も深い場所にある記憶の回路を直接揺さぶるような響きだった。
男は激しく息を呑み、その場に釘付けになった。
脳裏を猛烈な勢いでよぎっていくのは、今の家族と過ごしてきた穏やかで不器用な日々の記憶ではない。
それは、血と炎の匂いに染まった、遥か遠い過去の凄惨な情景だった。
見渡す限りの敵に囲まれ、体中から血を流しながらも、ただ一人の存在のために大刀を振り回していた自分自身の姿。
その戦場の中心で、男を鼓舞するように、あるいは共に果てることを誓うようにして寄り添っていたのが、あの白い獣だった。
一千年の時を超えてなお、その絆は色褪せることなく、男の遺伝子の奥底に焼き付いていたのだ。
「あなた、どうしたの。またそんなに顔色を悪くして」
妻が心配そうに男の逞しい腕に手を添えた。
その手の温もりと、わずかな震えが、男の意識を現実へと引き戻す。
冷たい正気が、男の脳内を駆け巡った。
男は自分の右手に残る妻の感触を確かめ、それから前方の白い影を真っ直ぐに見据えた。
「いや、何でもない。ただ、そこに誰かがいるのは間違いなさそうだ。俺は確かめなきゃならない。この胸の熱の正体を、そして俺たちがこの地底に呼ばれた本当の理由をな」
男の決意を秘めた言葉に応じるように、白い影はゆっくりと動き出した。
四つん這いだった獣の輪郭が、陽炎のように揺らぎながら、徐々にしなやかな人間の形へと姿を変えていく。
絹のように滑らかな長い髪が闇の中に広がり、その背後には九つの尾のような、青白い光の帯が静かに、そして激しく揺らめいていた。
地底の重苦しい静寂を切り裂き、その圧倒的に美しい存在が、男に向かって一歩を踏み出す。
それは世界のシステムが定めた宿命への反逆であり、同時に、一人の男の意地が引き起こした奇跡の始まりでもあった。
千年の時を超えた約束の再会が、いま、光の届かない断絶の谷の底で、ついに果たされようとしていた。




